不便を再考する1

先月の29日,縁あって京都大学の川上浩司先生の不便益システム研究会で話題提供する機会を頂きました。
こういう機会を頂くと,改めて自分自身の考えをきちんとまとめることにつながります。本当にありがたいことです。

そこでは不便益について,工学的な立場ではなく人のこころや考え方感じ方などに寄った立場で話したのですが,そこで改めて考えたことを少しずつここでお披露目しようと思います。

私の立場は川上先生とは少々違っているようです。
これは私にとって非常に重要で,だからこそ様々な視点や気づきを得られるのだと思っています。

私は「不便益とは原理的にスタンス(姿勢や立場)であり,人の生き様(価値意識)に左右される。 便利で好都合なものを一般的に「技術・技」と呼ぶが,不便益とは幸福感を得るための合目的的な技である。 つまり不便益システムとは,具体化させた行動様式の提案によって心理的幸福感をかきたてる仕組みと考えられる。」の立場を取ります。

これは不便と益を分けても同様です。
原理的に,人は「事態」を理解するために解釈を重ねて認識を深めます。
どのような出来事も仕組みであっても,それ自体で本質足り得ないというのが,H.E.S.O. thinking の特徴です。
「出来事」や「仕組み」を見つめているのは私たちの「こころ」です。
人は解釈なしに理解できないのは周知の通りです。

ですからへそ思考的な考え方としては,不便益とは『あなたの必要性から生まれる行動様式のひとつ』 となります。

そこで質問を頂いたある先生からは,不便と益は分けて考えているとのことでした。なるほど,私は不便益というひとつの「システム」を意識してお話しさせて頂いたのですが,その方は両方のとらえ方を知りたかったのでしょうか。

伺っていると,不便とは「手間がかかって頭を使う」こと,との説明を頂きました。
確かに,手間がかかるのは不便です。でも手間がかかるというのは手数が増えるというだけではないようです。
例えばアナログオーディオシステムではボリュームやスイッチ類が多数か位置されたアンプやイコライザーなどがあります。これは「不便だけど益がある」事例には微妙に該当しないそうです。

これは私にとっては楽しい機材でも,機械音痴なうちの家族はだれも便利とは思わないでしょう。
ところが,時間を経るとそれが楽しくなる場合があります。
これは心の中での変化が,一つの出来事を解釈し直し,「手間をかけることの楽しさを知る」というふうになるわけです。その時はじめて「不便だけど益があるよね」という感想が生まれる状態が起きるのでしょう。

同じ事象であっても,時と場合と知識と経験と技術などによって解釈が変わるんですね。

また,不便に益を「期待」した時点で対象となる人の想いや解釈が山ほど詰まっている状態ですから,私にとっては分けても分けなくても求めている行為に変わりはないと思っていましたので,分けることで更に細かな分析的思考が深まり,新たな気づきや視点を頂くきっかけがあるのだと感じました。

また,期待していないけどできちゃった,というのは偶然性を意図していますが,これすら意図がないのではなく,曖昧であっても意図はあります。
「無意味の意味」に近い視点ですね。
偶然性と言うことでは,これもある先生から「プランド・ハップンスタンス理論」というのを教えて頂きました。

いろいろ考えていらっしゃる方がいるのだと,改めて実感しましたが,こうなると不便も益も,対象となる人のモチベーションレベルにその関係性が見られそうです。

そこで,京都から帰ってきていろいろと思案してみました。

そもそも,「困っている状態(不自由な状態)」があるから不便なのですが,不便に至る状態とはどのような区別が出来るのかを考えてみました。

ここでは出来事に不便を代入してみました。

そうすると,不親切と不適合という状態が見えてきました。

困った状態とは「不親切」で「不便」で「不適合」な状態が起こると,人は「さぁ困ったぞ,どうしようか」となるのではないかというのがこの図の考え方です。

当然,これは絶対的な正解ではありません。
どちらかというと,みなさんにこそいろいろ考えてみて欲しいのです。

自分ならどんな構図が考えられるか。
そうすることで,その先を考えるきっかけを得る可能性が開けてきます。

ぜひ,みなさんもH.E.S.O.思考で,いろいろと考えるきっかけを手に入れて頂ければ幸いです。

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32thまなびあい勉強会

先日行われたまなびあい勉強会についてまとめたレポートです。
どうぞご覧ください。
なお,次回33thまなびあい勉強会は8月下旬を予定しております。

第32回まなびあい勉強会 (2018年6月2日)
講師:群馬大学
教育学部 教授   茂木 一司 先生
インクルーシブなつながりを美術から

茂木先生は、全ての人が共存共栄する社会の実現に向け、インクルーシブアート教育を研究されています。inclusionとは直訳すると「含有、包含」で、「排除」を意味するexclusionの反対語であり、「全体」を意識している用語です。障害や高齢などを含めて全ての人が共生するインクルーシブな社会には、アートのような差異や多様性を前提に、それを活かし、それぞれの個性を調和させながら全体をつかむ統合的総合的な教育力が基礎になるべきではないか、とのお話をしてくださいました。

また、フラットで共に生きられる世の中にするための「アートのかたち」を探究し、バリアフリーなダンスワークショップ、まえばしアートスクール計画など、「心動かされる体験」の場を仕掛けているそうです。楽しい学びを作るためには、「何をやるか」ではなく、「誰とやるか」が大事である。考えてから動くという頭でっかちではなく、まず身体を動かしてみる。出来ることの量や質を問わず、それぞれの得意なことを分担する、など、先生が大事にされている姿勢を言葉で明確に示されたことが、印象に残っています。

勉強会の後半はワークショップが行われ、「アートとは何か」というテーマのもと、グループごとに話し合いました。
・自分が自分らしくいるために必要
・様々な価値観に触れることができる
・自分と外の世界をつなぐもの
・その瞬間、瞬間での人、自分と深くかかわるもの
・そこにあるものを見る、感じる、捉える感性そのものがアートであり、それが心を豊かにする
などの意見が出され、参加者から、「アートについて深く考える機会だった」、「アートの必要性が確認できた」、「価値についての広がりと深まりを感じた」などの感想をいただきました。

様々な立場の人たちが、各人の違いを認識しながら、それぞれの違いを強みとして、また、共通性を探しながら共に生きるということは、とても大事な社会のあり方だと思います。

翌日は善通寺市にある、独立行政法人 国立病院機構 四国こどもとおとなの医療センターに見学に行き、当病院のホスピタルアートについて、アートディレクターの森さんよりお話を伺いました。エントランスにある小人の家、外壁画、病棟ごとの色使い、屋上庭園など、心温まる仕掛けが盛りだくさん!患者さんを想ってこそ、スタッフの仕事のしやすさを想ってこそのアート、「思いやりがかたちになっているアート」を目の当たりにし、これこそインクルーシブアートなのではないかと感じました。

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V2Hで護る生活環境

「ともにスタイル」では、菜園から調理という自家消費の流れに加えて環境問題にもその視点を提供する取組を行なっています。
それがフラクタルひよけ、太陽光発電などです。

写真はV2H「Vehicle to Home」の制御装置です。このユニットに電気自動車(LEAFなど)を接続することで、太陽光発電した電気を蓄え、施設配電盤への給電が可能になります。

他の太陽光発電と異なる唯一の特徴は、商用電源が落ちて停電した場合でも発電システムがダウンせず、蓄電池に蓄え続けることが出来るのです。

あまり知られていないのが意外ですが、通常の家庭にある太陽光発電では電力会社が停電すると使えません。基本的に売電(電力会社に発電した電気を売る)のためのシステムになっていて、発電した電気は電力側の電線に供給される仕組みになっています。
そして、室内に設置されている電力直流を交流に変換するコンバーターには、コンセントがひとつだけついていますが、これに接続できる電気製品は扇風機や小型TVぐらいが限界で、ヘアドライヤーや電気炊飯器など消費電力の大きな電気製品は使用できません。
ましてやうだるような暑さの中に置かれてもエアコン機器使用は論外です。

このシステムは、将来起こるであろう南海地震に備えて、電力会社からの給電が途絶えても晴れ間が現れる限りは自前で発電し、畑で採れる作物を食べ、飲料水は井戸水でしのぐなど、災害時の負担軽減設計を目指しています。

巨大なインフラを維持するためには巨額の費用が必要です。それは災害時には巨額費用と膨大な労力がないと、復旧が見込めないことを意味します。

大手に一括して任せば効率は良いかもしれませんが、いざという時に大変です。
これからの少子化社会では個人や小さなコミュニティ単位で自活することが求められると予想されます。

エネルギーを一切使わず地表温度を下げるフラクタル日よけと降り注ぐ太陽光をいざという時にも役立てるV2H。

ご興味のある方は、お気軽にお問い合わせください。

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世界の捉え方と生き方と

ある本を読んでいて「生き方指南」は哲学書にはないとの記述に出会いました。

意外でしたが納得できるところもあります。

私たちが生きている「世界の捉え方」があって、生き方の分析はあってもこう生きなさいとは書いていないとか。そこには理論的な仕組みである観念論や存在論などが生み出されているそうです。
本質に向かう考え方のコツみたいな感じなのでしょうね。

世界には事実(出来事)を元にした「ほんとう」や「うそ」が入り混じっています。ただし、絶対的な決定打がないので、人は理論に触れて右往左往させられながら生きていると言えるかもしれません。

そういった全ての考え方感じ方などをシンプルに掴んでしまうためにへそ思考を考案しました。

私たちが暮らす生活の場にはモノが存在し、コトという「あらわれ(事態)」がひしめいていると考えます。これは世界の捉え方です。
このような世界に生きる私たちは、生まれると同時に死へ向かっていますから、その時間の過ごし方を志向したいと考えます。これは望ましい生き様を意識した生き方です。

どのような世界に生き、どのように生きるか。
その自分たちの生きている世界の捉え方が多くの哲学書に書かれている、ということらしいです。

では、未来志向の姿勢を活かせる生き方はどこかにあるのかと探してもなかなか出会えません。それは至極当然で、どこかにあるのではなく各個人の価値観に直結するからです。

生き方の具体的内容は一人一人違いますから「これが良い生き方だ」と言ったところで、他の人にとっては性格的や体力的などの多様な要素が加わるために、不適当な場合が往々にして起こります。なにしろ答えは常にその人の中にあるわけですからね。

表題のふたつは別の対象を捉えていますから、その内容説明は違うのが当然ですし、混同しないように気をつけなければいけない点でもあります。

どちらが先とか、どちらが大事かとかの問題ではありません。

世界を捉えた上で生き方を描く人もいるでしょうし、生き方を志向する過程で世界の捉え方を見つける人もいるでしょう。

世界の捉え方が見えても生き方の志向に直結するわけでもありませんし、その逆もまたしかり。

さて、ここまでの話をへそ思考的に見つめてみましょう。

世界の捉え方は枠組みという「仕組み」に向かう姿勢ですし、生き方は答えを探ろうとする過程の「出来事」を志向する姿勢ですから、向かっている方向が違うとわかります。その間には機能があります。これは仕組みから導かれる場合もありますし、出来事から見つかる場合もあります。
そしてそれらを私たちのこころが見つめています。時に感覚的に、時に感情に押し流され、思い込みやこだわりとも向き合いながら本質を探ろうとするのです。

そう。全てはあなたの心がけひとつだということが見えてきました。

たとえどのように世界を捉えても、どのような生き方を描いても、あなたが感じ考えそして行動することに変わりはありません。

答えは決して外にあるのではなく、自分自身の心に問い、自分なりに導き出した結論からかたちづくりの過程に身を置くこと。

あなた自身を大切にするために世界の捉え方があり、指標とする生き方(生き様が活かされるような日常生活)を送ることが大切だと思うのです。

難しいことをいっぱい並べましたが、結局のところ「あなたはあなたを大切にしている」とあなた自身が認め、周囲も認めてくれるような生活を送る姿勢には、きっと今は言葉にできなくても確実に世界を捉えているのでしょうし、人に誇れる生き様だって含まれているのだと思っています。

想いのかたち。
それを俯瞰する大切さ。

ことづくりの姿勢に込めた私の想いを少しはわかって頂けたなら幸いです。

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あいだの見つめかた2

【真実はいつも3つ】

あいだの見つめかた1」の続きです。

これが正解、は概念の固定につながります。

固定化された基準があると、人はそれを足がかりとして安心します。それを更に一般化するための理論構築を通して、もっと安心できるかたちを求めます。

よりリアルに詳細に,具体化すればするほど矛盾を生じる場合もあります。それを避けるため,最終的な結論は相手に委ねるという手法もあります。

それが項目立てです。「〇〇の何箇条」は、迷う人たちを引きつける魅力的な言葉が並びます。私たちはその文言を受けて,大いに共感し時にはドキッとさせられながら、具体的対象としての項目だてから分析しようと試みます。
これらは心の安定に役立ちますが、多くを求めると思考停止の事態を起こします。
そこに答えを解決するきっかけはあってもあなたの悩みを全て網羅しているわけではありません。答えはあなた自身の自覚的な行為や行動の中に隠れているからです。

ビジネスで手段と目的を問う人がいます。それは手段であって目的ではない、とか、目的化している、とか。
これまでもお話ししたように,これではへそ思考において重要な要素である「解釈」が欠けていますから、二つだけを引き合いに議論してもなかなか話が進まないのは当然です。それどころかどちらかが折れるか諦めるかしないといけない状況に追い込まれる場合もしばしばでしょう。

手段や目的などは時と場合によって自在に入れ替わりますが、その解釈変更を行う柔軟さが大切だと,私は思うのです。

さて,ことづくりは想いや仕組みや出来事のかたちがからみあって次へと進むかたちをつくります。

へそ思考で見つめると,本質(意味や価値など)には常に3つの方向があると考えます。ですから人気アニメの名探偵コナンに登場する「真実はいつもひとつ」というセリフは「ん?そうなの?」となってしまいますよね。

これを簡単に言うと,真実って「ほんとうのコト」ですから【真実はいつも3つ】となります。

さて、何度もお話ししていますが、ものづくりは目に見える形を素材を用いて生み出しますが、ことづくりは心が見つめる想いをかたちづくります。

ものにこだわる方は、素材が構成する物質的な完成度や様式を見つめています。商品価値や独自性にはとても敏感です。
ことにこだわる方は、過程や充実感、自分自身の将来展望へつなげる方向を見つめているようです。

どちらが、ではありません。どちらも大切。
その、バランス感覚。

ものづくりに、ことづくりは【重要】です。
ことづくりに、ものづくりは【有効】です。

バランス感覚を保てているか、と自分を見つめる3つの視点。
そのベクトルを俯瞰すること。
そう。これがことづくりの基本姿勢です。

あなたの生活の中から、改めていろんなことを考えてみると、そうだと思い込んでしまっている固定概念があるかも知れません。
特に「〇〇すべき」と思っていることがあるとすれば、それこそ視点を変えるきっかけづくりの起点となります。
その固定概念を共通項探しによってはずしてみると、ちょこっと新しい視点が見つかって、ひょっとすればそこから別の方向が見えるかも知れませんね。

ぜひ、固定化した概念を意識して動かすことで、新しい気づきやきっかけを手に入れて、より良い生活を楽しんでください。

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あいだの見つめかた1

【無限ループを避けるとんち力】

「あいだ」について書いている書籍は最近増えた気がします。
というか,私自身が意識して気にかけているからかも知れませんが,調べていくとやっぱりというかたいていというか,現象学的な理論に裏打ちされているようですね。

ここでは内容の重複はありますが,「「あいだ」を意識する」「どっちが先か」「あいだのこと」「あいだの文脈」と来ましたので,その関連です。

さて,「あいだ」を見つめるには固定概念を外し二項対立に陥らない姿勢が大切なのですが、この二項対立回避に向き合うのはなかなかに大変です。

大抵の場合、成長するほどに違いを探すという『比べる』ことが身に染み付くからです。
自他を比べることでアイデンティティを確立するという要素を含んでいます。個性や多様性をまず認識するには,この比べるという行為は人が生きていく上で不可欠な要素です。

かといって『同一視』という,常に同じところばかりを見つめるのもまた「困ったちゃん」になる要素を含んでいます。自分を人間と思っている犬や猫の仕草ってめちゃくちゃ可愛いですよね。でもそれが真実と向き合っている姿かと言われれば,ちょっと違いますよね。

「〇〇しないようにする」という決意は既に二項要素による対立的な判断ですが,これの最たる状況が禁煙に挑む姿勢ではないでしょうか。

今からは想像もつかないと思いますが、20年前の私は1日60本も吸うヘビースモーカーでした。それが今ではタバコの匂いすら嫌いになりました。あ,当財団施設内は全面禁煙ですので、受動喫煙等がご心配な方にも安心してご利用頂けます。

「よくやめられましたね」と言われましたが、実は強く決意して止めたわけではありません。止められると良いなぁ。まぁやれるところまでやってみよう、と気楽なスタートだったのです。

その頃は理由や根拠など深く考えもしなかったのですが、今となってはこの頃から「あいだ」探しをやってたのかなぁと思います。

基準となる指標や目的があれば、それは比較対象となります。軸が定まればその周りが見つめられます。
いわゆるカオス(混沌)状態では光すらないので位置を定められません。その状態で基準を絶対的な存在とするか自分自身を起点にするかが,哲学的な基準指標の設けかたと言われています。理屈っぽく言えば,存在論(「在る」という前提から始まる問いかけ)か認識論(「私が居る」から始まる問いかけ)かの違いですね。

何気ない普段の日常生活においても,この比較は避けられない現実です。
つい比べてしまいますよね。
あの子よりもかっこいいとか、こっちの方がおいしそうとか。

ところが、これまでもお話ししたように「あいだ」には相違点だけでなく共通点もあります。

相違点を見つけるのは簡単ですが、共通点を見つけるのはひと工夫が必要です。
なぜかというと、共通項探しでは相違点探しとは違う視点が必要だからです。これが本質に向かう力を引き出してくれます。

これを簡単に言えば「とんち力」です。

年配の方ならご存知のアニメ「一休さん」のようなお話です。例えば「この橋渡るべからず」との札を見て、端ではなく真ん中を歩いたというアレです。

漫談の謎かけもそうですね「〜と掛けて〇〇と解く。そのココロは?」って言うヤツです。これは共通項探しの楽しい練習法のひとつです。

一見「バカげたこと」に思えても大事な見方考え方感じ方があります。それが困難を克服する突破口になる場合もあります。
美術の世界でも概念くずしとも呼ばれるこの手法が、あいだのあいだを問い続ける無限ループを回避します。

相違点としてのあいだ探しには、【常にその間のあいだに何かがあるという問いがつきまとう】からです。ところが共通項を見つめると、ほんの少しでも同等の本質(意味や価値など)が認められますから、その間を探す無限ループを避けるお手伝いができるのです。

これが共通項探しの最も重要なポイントです。

無限ループの探究は自然科学系の学者のみなさんにお任せして,私たち普通の人々が心豊かに日常生活を送るためには,無限ループに無用なエネルギーを注ぐことなく共通項をより広げたり深めたりする方向を探ることによって,多様な人々が活きる社会の形成につながるのではないでしょうか。

続きはまた後日。

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保留呪文2「おやまぁ」

前回「ま、いっか」という基礎呪文?(*^_^*)をお話しました。今回は少々高レベルな呪文のお話です。

例えば、子どもが失敗してコップのジュースをこぼしました。

そんな時に「あらあら」とか「おやおや」と、愛情のこもった眼差しで共感と困惑が入り混じった言葉で応じる人も多いのではないでしょうか。

叱りつけたり怒鳴ったりしても、やったことが覆るわけじゃありません。

子どもに注意する時には、失敗しないように気をつけるコツを伝える「しかけ」をちゃんと用意してあげておく前準備をこちら側がやれたかどうかも大切です。

わざとやってこちらの関心を引きたい場合もありますから時と場合によりますが、それをちゃんと見極めた上で、次の行動に移れば良いんです。

この「おやまぁ」は、次につながる絶妙な「間」をとるのに有効です。つまり【短期限定的な保留】に役立ちます。

これを用いると、その直前の事態を一旦受け止めて共感や理解を示しつつも結論を先延ばしにできます。

もっとも、相手が得意満面で語る時には嫌味に受け取られる場合もありますから、使う場面によっては注意が必要な呪文ですよ。

他にも保留呪文はありますが、その話はいずれまた。

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今年度の方向性

昨日は財団の役員会でした。

昨年度の活動と今年度の予定をお話ししましたが,いつも上手に話ができずにダラダラな感じで,毎度のことながら話し上手になりたいなぁと感じます。どちらかと言えば,こうやってキーボードをたたいて文章を書く方が楽です。

さて,今年度は昨年度に続き「あなたらしさのかたちづくり」として,ことづくり(「かたちのあらわれ」づくり)を推進していきます。

曖昧さは世界を心豊か(リッチ)にします。
明確さは世界を現実的(リアル)にします。

ことづくり生活では、その「あいだ」を見つめたいと考えています。
こぢんまりとまったりとが似合う場所。活力を充電できる未来志向な考え方。

これからの社会にどんなコトが必要か、正直わかりません。ただ、探し続けること(プロセス)を楽しめたら、それで良いような気もします。

世の中は全体主義的な傾向から個人主義的傾向へと移りつつあります。伝統や文化を後生に伝える歴史的継承も必要ですが,今を生きる人たちの叡智を加えてより良いかたちをつくる姿勢も大切です。何より今を輝かせようとしていない社会では、後の世から見て魅力的には映らないと思うのです。

どちらかの選択ではなく共通項を見つめてより良い生活のかたちをつくる。
様々な表現方法(言語,音楽,身体,造形など)が,様々なかたちをつくります。
そういったコトを「ことづくり生活」として,広く伝えていきたいと考えております。

今年度から役員数も増やしてより専門的なご意見を頂戴しながら活動して参ります。役員の方々には多忙な中お集まり頂き,ありがとうございました。

このページをご訪問くださった皆様も,今年度も引き続きどうぞよろしくお願いします。

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明確さが世界を現実的に

前回「曖昧さが世界を豊かに」する話をしました。今回は「明確さが世界をリアルに」する話をしてみましょう。

想像力が中心となり様々な解釈が存在する世界が私たちの住む世界ですが、それだけでは日々の衣食住が豊かになるわけではありません。

例えばキノコ。こんな調理をして盛り付けて食べられると良いなぁと妄想するのは自由ですが、毒があるとすれば大変です。

つまり危険を回避して安全安心な生活を送るには、科学的根拠をもった知識が必要で、曖昧さと明確さは両方とも大切だということがわかります。

出来事や仕組みから来る機能や、効果や効能などのような明確な根拠を備えると、現実的な見方が増します。

ぼんやりしている対象に輪郭を与えてくれます。

また別の例を挙げれば、混沌とした世界にみんなが守るべき一定のルールを設けると、それはモラルやマナーと言った社会規範となり、理念をもとに論理性を高めれば法律になり、人を守り縛る役割が与えられます。

明確だからこそ、改善策を立てるにも具体性を伴って理路整然とコトを進められます。

四角四面過ぎるとか、枠ばかり気にし過ぎると言った対象へのこだわりが強過ぎるという批判もまた、明確だからこそ論点が見えるのです。

何事にも一長一短があり、それをどのように解釈するかは人のこころに委ねられています。

ですから曖昧さと明確さはという相対する両輪が必要なんですよね。

ことづくり生活では、その「あいだ」を意識して見つめることを大切にしたいと考えています。

今の社会は、何でも明確化したい方向にばかりエネルギーが注がれている気がします。だからと言って曖昧なままで放置するのが良いと言っているのではありません。

決めつけによる誤解が横行していることを危惧しているのです。だからこそ、現象学で言うところの一旦「保留する」という行為が大事になるのです。

ことの視点から見つめると、世界はひとつではありません。へそ思考的にはどんなコトにも常に3つの方向があります。

そう思って周りを見つめると、ひょっとすれば今まで見えていたけど気づいていなかったことなども含めて、あなたにとって新鮮な発見があらわれ、そこからなにかをかたちづくる行為へと発展するかも知れないですね。

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責任をとること

責任の取り方って、ビジネスだけでなく人が関わるコミュニティがあれば必ず生まれる周囲との関係性のひとつです。

まずは責任の意味を調べてみましょう。

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1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

(デジタル大辞泉)

**********

とありました。

これらには行動に向かう「決断」という前提行為から始まります。誰かが何かしらの決断を迫られ、決定内容に沿って行動し「完遂」すること。

つまり決断から完遂に至る流れの中に、責任を伴なう姿勢があらわれるようですね。

上手く行かなかった場合に次へ向けてどのような行動をとるかは、責任を果たす流れの一つでしかありません。

予算を伴う実験やプロジェクトなどもそうですが、やり始めたり起きた(起こした)りした事態を完遂させる(収拾する)のが責任をとることです。

しかしながら「俺が責任を取ってやる」と豪語する方の中には「自分のメンツを差し置いて頭を下げるだけ」もしくは「自分の社会的立場を担保して交渉要件とする」という単純さで理解している人が意外にも多いらしいのですが、本当なら恐ろしい話です。謝罪と責任は同一ではなく「起きた事態を収める・やり遂げる」こと自体が重要なのですからね。頭を下げて収まるほど世の中は単純じゃないですから。

そう考えると他者の責任なんてそうそう引き受けられません。逃げずに矢面に立ち、正面から向き合う覚悟と完遂の姿勢を示す胆力も必要です。

先週から、日大アメリカンフットボール部の事件性のある重大事故に対して、「責任」という言葉が飛び交っています。

事件の本質はこれから明らかになるでしょうから、私としては静かに見守るだけです。何より当事者の学生たちが一番傷ついている問題です。

その中で大半の人は元監督の言動には首を傾げているのではないでしょうか。教育者そして責任者たる立場から来る責任の取り方は、過失に対して頭を下げることだけではありません。多岐に渡ります。

事態に対する謝罪と責任では「出来事」の起こし方が違います。責任をとるのは「こころ」に向き合ったり寄り添ったりする謝罪から始まるのであって、それで終了ではありません。

私は危機管理に関する知識はありませんが、「当該対象者に対して誠心誠意尽くすすり合わせの姿勢」に尽きると思っています。口先ひとつで述べる言葉ではなく、最後までサポートするという覚悟の「あらわれ」が必要でしょう。

それは別にメディア宛に全てをつまびらかに説明するということではありません。当事者間が納得できるかたちであればそれで充分ですからね。

さて、何の責任を誰に対してどういうかたちでとるのでしょうか。それをへそ思考で見つめてみましょう。

まず「何の」ですが、具体的な事実関係である「出来事」が示される必要があります。

次に誰に対してですが、関わった全ての人が対象か、限定するかを決めます。これは【絞り込み】ですから、根拠足りうる「仕組みから理念や機能に向かう」意味を問い、明確なルールを設ける必要があります。

この絞り込みについては、いずれまたお話しする機会があれば。

最後に方法ですが、当事者のあいだにある「こころ」に寄り添っている必要があります。自分の想いだけで突っ走るのは最悪です。当事者の想いに寄り添うかたちが重要です。何が求められているのか、それに応えるためにどんなやり方があるかを複数考える事です。

責任の取り方(完遂方法)にこれという具体的な内容はありません。「コレにはコレ」という思考停止を促すような決め事は逆に危険です。

それよりも、自分で解決させるという態度と共に様々なプロセスと向き合い、ゆらぎの中で答えのない最善を探りながら諦めない姿勢が大切です。

今回の場合、責任を果たせば当事者たちの「こころ」から消滅するわけではありません。仮に刑事罰を受けて服役すれば法的には相殺されるとなるでしょうが、当事者のこころにはずっと残り続けます。というより残し続けることになるでしょう。

忘れてはいけない、心に刻み込んでおくこと。それは忘れたいことでもあるから悩ましい問題が立ち現れます。

どんな場面にも、へそ思考は役立つ可能性があります。何とどうやって向き合うことが望ましいか。

そのためにも、共通了解と未来志向という姿勢を大切にしたいですね。

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