「あいだ」のこと

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前回の『「あいだ」を意識する』の記事から半年経ちましたが、今回は別の視点からのお話です。

前回は表や裏、男や女の「あいだ」には何があるかという概念的な問いでしたが、今回は本質的な「あいだ」を見つめてみましょう。

例えば「あなたとわたし」の「あいだ」とは、何らかの方法で比較することで理解できる差異や共通項などですが、この「あいだ」とはどうやって調べると良いのでしょうか。

さて、それではH.E.S.O.思考(へそ思考)に該当させて、「出来事・仕組み・こころ」の3領域の位置づけを見つめてみましょう。
このようにへそ思考は、その本質を3領域から分析的に見つめられるのです。

ひとつは「現実的あいだ」(出来事)※Real
ふたつめは「概念的あいだ」(仕組み)※Concept
みっつめは「感情的あいだ」(こころ)※Emotion

今回はこのように分類してみました。
現実的あいだには時間や空間という物理的に計測できる距離があります。概念的あいだには論理性や意味作用性などがあり、感情的あいだには主観や偏見や感覚などがあります。

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最近は絆やつながりという用語だけが先走り、個としての存在が集団としての「モノやコト」などに縛られた全体主義的な場合も見受けられます。

私は多様性を重視するなら、まずはそれぞれの個が取捨選択できる範囲を広げる必要があると考えています。これは「菜園の哲学」から得た【間引き】から来ています。

前提として人は間引けません。ところが野菜は間引きが前提なのです。
この野菜を間引くという教育とは真逆な行為に身を置くことで、自分の考え方をリセットするきっかけを得ていました。
人は動物ですから移動できますが野菜は植物ですから移動できない、の差異しか見ていませんでしたが、どうやら本質はそこではなかったようです。

改めて共通項を探ってみると以下のような「こと」が見えました。

間引きとは、個の成長を助けるために物理的に距離を空けて風通しを良くして、お互いの根張りによる肥料の奪い合いをさせないために行うのですが、人とのあいだにも間引きを必要とするような同じ状況を感じたのです。

絆やつながりとは、必ずしも距離が詰まれば強固になるわけではないようです。

例えば「昔はコミュニティがしっかりしていた」のは確かにそうなのでしょうが、果たしてそれは多様性の上でのコミュニティだったのでしょうか。
むしろ少数意見を押し殺して、ぐっと堪えていた人もいたのではないでしょうか。

昔のように寄り合い長屋的に人と人との物理的な距離を縮めても、個性を大事にしようとする現在の社会には合わないと思うのです。
これは離隔距離としての「現実的あいだ」の重要性を物語っています。

当然ですが概念的、感情的の2領域にも大切な内容は含まれていて、私たちが見つめるのを待ってくれているのです。

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来たい人が来れば良い、やりたい人がやりたいことをやれば良い、というのは当該施設も同じです。これは参加者が参加者自身が考える「あいだ」の中で活動することを意味します。

問題はその先にあって、「来たなら『我々と同じように』やりなさい」となった途端に、本質的な意味での多様性とは言えなくなるのではないかと感じるのです。
とはいえ、集団の中で何でもかんでも自由気ままにやるのは明らかに違いますよね。
確かに制限は必要ですが、便宜上制限しているのであって制限された状態ありきではないでしょうから。

最低限のルールやコンセプトは重要ですし、それに合わせて集まれば極端に価値観の違う人たちのぶつかり合いも起きませんから、当然そういうコミュニティだって必要なのですが、誰かの価値観で縛っておきながら「みんながつながる」なんて言っているイベントを結構見かけるのです。

その「かたち」で、なにがどのように「つながる」のでしょうか。
どこかにその状態を冷めて見つめる目があるのではないでしょうか。もしそうなら、その目は参加する気がないと言うより参加したくても参加できない、声を挙げない、挙げられない、支援の必要なマイノリティのように感じるのです。
私たちの「ことづくり生活」には、自分の思いがあっても自分らしさに向かう声が挙げられない、どうしたらいいか迷っている人たちを見守りたいという願いをもって活動しています。

今回はあいだからつながりへと話が広がっていきましたが、「ひろがる」ことも大切な論点で、日々こんなことをつらつらと考えています。

この「ひろがる」については、また後日に。

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