先月の29日,縁あって京都大学の川上浩司先生の不便益システム研究会で話題提供する機会を頂きました。
こういう機会を頂くと,改めて自分自身の考えをきちんとまとめることにつながります。本当にありがたいことです。
そこでは不便益について,工学的な立場ではなく人のこころや考え方感じ方などに寄った立場で話したのですが,そこで改めて考えたことを少しずつここでお披露目しようと思います。
私の立場は川上先生とは少々違っているようです。
これは私にとって非常に重要で,だからこそ様々な視点や気づきを得られるのだと思っています。
私は「不便益とは原理的にスタンス(姿勢や立場)であり,人の生き様(価値意識)に左右される。 便利で好都合なものを一般的に「技術・技」と呼ぶが,不便益とは幸福感を得るための合目的的な技である。 つまり不便益システムとは,具体化させた行動様式の提案によって心理的幸福感をかきたてる仕組みと考えられる。」の立場を取ります。
これは不便と益を分けても同様です。
原理的に,人は「事態」を理解するために解釈を重ねて認識を深めます。
どのような出来事も仕組みであっても,それ自体で本質足り得ないというのが,H.E.S.O. thinking の特徴です。
「出来事」や「仕組み」を見つめているのは私たちの「こころ」です。
人は解釈なしに理解できないのは周知の通りです。
ですからへそ思考的な考え方としては,不便益とは『あなたの必要性から生まれる行動様式のひとつ』 となります。
そこで質問を頂いたある先生からは,不便と益は分けて考えているとのことでした。なるほど,私は不便益というひとつの「システム」を意識してお話しさせて頂いたのですが,その方は両方のとらえ方を知りたかったのでしょうか。
伺っていると,不便とは「手間がかかって頭を使う」こと,との説明を頂きました。
確かに,手間がかかるのは不便です。でも手間がかかるというのは手数が増えるというだけではないようです。
例えばアナログオーディオシステムではボリュームやスイッチ類が多数か位置されたアンプやイコライザーなどがあります。これは「不便だけど益がある」事例には微妙に該当しないそうです。
これは私にとっては楽しい機材でも,機械音痴なうちの家族はだれも便利とは思わないでしょう。
ところが,時間を経るとそれが楽しくなる場合があります。
これは心の中での変化が,一つの出来事を解釈し直し,「手間をかけることの楽しさを知る」というふうになるわけです。その時はじめて「不便だけど益があるよね」という感想が生まれる状態が起きるのでしょう。
同じ事象であっても,時と場合と知識と経験と技術などによって解釈が変わるんですね。
また,不便に益を「期待」した時点で対象となる人の想いや解釈が山ほど詰まっている状態ですから,私にとっては分けても分けなくても求めている行為に変わりはないと思っていましたので,分けることで更に細かな分析的思考が深まり,新たな気づきや視点を頂くきっかけがあるのだと感じました。
また,期待していないけどできちゃった,というのは偶然性を意図していますが,これすら意図がないのではなく,曖昧であっても意図はあります。
「無意味の意味」に近い視点ですね。
偶然性と言うことでは,これもある先生から「プランド・ハップンスタンス理論」というのを教えて頂きました。
いろいろ考えていらっしゃる方がいるのだと,改めて実感しましたが,こうなると不便も益も,対象となる人のモチベーションレベルにその関係性が見られそうです。
そこで,京都から帰ってきていろいろと思案してみました。
そもそも,「困っている状態(不自由な状態)」があるから不便なのですが,不便に至る状態とはどのような区別が出来るのかを考えてみました。
ここでは出来事に不便を代入してみました。
そうすると,不親切と不適合という状態が見えてきました。
困った状態とは「不親切」で「不便」で「不適合」な状態が起こると,人は「さぁ困ったぞ,どうしようか」となるのではないかというのがこの図の考え方です。
当然,これは絶対的な正解ではありません。
どちらかというと,みなさんにこそいろいろ考えてみて欲しいのです。
自分ならどんな構図が考えられるか。
そうすることで,その先を考えるきっかけを得る可能性が開けてきます。
ぜひ,みなさんもH.E.S.O.思考で,いろいろと考えるきっかけを手に入れて頂ければ幸いです。