責任をとること

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責任の取り方って、ビジネスだけでなく人が関わるコミュニティがあれば必ず生まれる周囲との関係性のひとつです。

まずは責任の意味を調べてみましょう。

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1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

(デジタル大辞泉)

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とありました。

これらには行動に向かう「決断」という前提行為から始まります。誰かが何かしらの決断を迫られ、決定内容に沿って行動し「完遂」すること。

つまり決断から完遂に至る流れの中に、責任を伴なう姿勢があらわれるようですね。

上手く行かなかった場合に次へ向けてどのような行動をとるかは、責任を果たす流れの一つでしかありません。

予算を伴う実験やプロジェクトなどもそうですが、やり始めたり起きた(起こした)りした事態を完遂させる(収拾する)のが責任をとることです。

しかしながら「俺が責任を取ってやる」と豪語する方の中には「自分のメンツを差し置いて頭を下げるだけ」もしくは「自分の社会的立場を担保して交渉要件とする」という単純さで理解している人が意外にも多いらしいのですが、本当なら恐ろしい話です。謝罪と責任は同一ではなく「起きた事態を収める・やり遂げる」こと自体が重要なのですからね。頭を下げて収まるほど世の中は単純じゃないですから。

そう考えると他者の責任なんてそうそう引き受けられません。逃げずに矢面に立ち、正面から向き合う覚悟と完遂の姿勢を示す胆力も必要です。

先週から、日大アメリカンフットボール部の事件性のある重大事故に対して、「責任」という言葉が飛び交っています。

事件の本質はこれから明らかになるでしょうから、私としては静かに見守るだけです。何より当事者の学生たちが一番傷ついている問題です。

その中で大半の人は元監督の言動には首を傾げているのではないでしょうか。教育者そして責任者たる立場から来る責任の取り方は、過失に対して頭を下げることだけではありません。多岐に渡ります。

事態に対する謝罪と責任では「出来事」の起こし方が違います。責任をとるのは「こころ」に向き合ったり寄り添ったりする謝罪から始まるのであって、それで終了ではありません。

私は危機管理に関する知識はありませんが、「当該対象者に対して誠心誠意尽くすすり合わせの姿勢」に尽きると思っています。口先ひとつで述べる言葉ではなく、最後までサポートするという覚悟の「あらわれ」が必要でしょう。

それは別にメディア宛に全てをつまびらかに説明するということではありません。当事者間が納得できるかたちであればそれで充分ですからね。

さて、何の責任を誰に対してどういうかたちでとるのでしょうか。それをへそ思考で見つめてみましょう。

まず「何の」ですが、具体的な事実関係である「出来事」が示される必要があります。

次に誰に対してですが、関わった全ての人が対象か、限定するかを決めます。これは【絞り込み】ですから、根拠足りうる「仕組みから理念や機能に向かう」意味を問い、明確なルールを設ける必要があります。

この絞り込みについては、いずれまたお話しする機会があれば。

最後に方法ですが、当事者のあいだにある「こころ」に寄り添っている必要があります。自分の想いだけで突っ走るのは最悪です。当事者の想いに寄り添うかたちが重要です。何が求められているのか、それに応えるためにどんなやり方があるかを複数考える事です。

責任の取り方(完遂方法)にこれという具体的な内容はありません。「コレにはコレ」という思考停止を促すような決め事は逆に危険です。

それよりも、自分で解決させるという態度と共に様々なプロセスと向き合い、ゆらぎの中で答えのない最善を探りながら諦めない姿勢が大切です。

今回の場合、責任を果たせば当事者たちの「こころ」から消滅するわけではありません。仮に刑事罰を受けて服役すれば法的には相殺されるとなるでしょうが、当事者のこころにはずっと残り続けます。というより残し続けることになるでしょう。

忘れてはいけない、心に刻み込んでおくこと。それは忘れたいことでもあるから悩ましい問題が立ち現れます。

どんな場面にも、へそ思考は役立つ可能性があります。何とどうやって向き合うことが望ましいか。

そのためにも、共通了解と未来志向という姿勢を大切にしたいですね。

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