意味の意味を問うこと

「ことづくり生活」では世の中に絶対と言い切れることはないよね、という立場をとっています。

そのために考案したH.E.S.O.思考(へそ思考)は,「万能で常に答えが導ける」とは無縁です。単なる道具ですが,とても使い勝手の良い道具です。
そもそも初発の問いとは発する者の態度や立場に起因しますし、答えは普遍性のあるなにかというよりも、現実社会で探し得る共通了解的な「こと」だと考えています。また,そう考えないと永遠に見つけようのない超越的な世界観に埋没する可能性だってあります。

さて、今回はちょっと答えを探りようのない問いを発してみましょう。

こういう問いは言葉遊びと言われるのですが、案外大事なことが潜んでいます。

意味の意味を探る。
価値の価値を探る。
本質の本質を探る。

これは腹痛の腹痛とか愛の愛とは、と言っているのと同じで、文言自体をなぞれば堂々巡りを起こす問いです。だからと言って無用な問いだと言いたいのではありません。むしろ本質を探る大事なきっかけにもなり得て,ある意味とても哲学的な問いだと思っています。

これは「なぜ発したのか」を自分自身に問うところから始まります。次に発した言葉に込めた意味が立ち上がり、そして明確な具体性を得ながら全体が見渡せる位置を探る必要があります。

どこかに何かしらの答えが【ひとつ】ある。という前提だけで言葉のもつ意味をむやみに探っても、大事な本質を見落としてしまうことがあります。

今回の「意味の意味を問う」こと。

これ自体の問いと答えに重要な本質が隠れているというよりも、むしろそこに何が隠れているかを探る過程こそが大切だと考えてみましょう。というのも、この問いを発した者が「意味」という用語にどんな本質を求めているかに関わるからです。
そこで、本質には常に【3つ】の領域があるとみなすH.E.S.O.思考が活きてきます。

それでは、有名なリンカーンの名言をちょっと使ってみましょう。

「人民の人民による人民のための~」

おおっ,って心に響くような言葉ですが,これだって実は「人民」に込めた意味が漠然としていて、受け取る側の言葉に対する解釈が異なると意味も変わってきそうですよね。

それを例えば、出来事、仕組み、こころという順番で見つめてみましょう。

人民が作り出す「出来事」を、人民が作った「仕組み」によって、人民が「こころ」豊かに生活するための~

どうでしょうか。

また別のパターンを一つ。

「自由な自由を自由にする」
日本語としては支離滅裂ですけど、例えば「自由な思考という「仕組み」によって自由を感じる「こころ」を大切にして自由に「出来事」を生み出す」と組み直せば意味が通って来ます。

同じ言葉が繰り返されたとき、そこに込める意味なり価値をH.E.S.O.思考を使って見つめ直してみると、より具体的な方向が見えてくる場合もあります。

このように、へそ思考は支離滅裂になりがちな人との会話を整理するときにも使えますし、堅苦しそうな哲学的な問いに見えるような言葉にも具体性を提供できますし、超越的な話が得意な人の内容も整理することが可能です。

みなさんも普段使っている言葉にどんな事態などを込めているかを考えてみると、また違った視点が見つかるかも知れませんよ。

たまには童心にかえって無邪気に言葉遊びに興じてみてはいかがでしょうか。

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24th不便益システム研究会

いつもお世話になっている不便益システム研究会の川上浩司先生から、ことづくり関連の話をする機会を頂きました。感謝感謝です。

不便と益という一見相反するような用語で構成される不便益の考え方は、ことづくりにとっても非常に大切な見方考え方感じ方などのきっかけを与えてくれます。
特に「日々の生活を楽しむ」ために活用できる,不便益的な行為や行動に至るプロセスに関心を持っていただければ幸いです。
今回、相反すると思われる対立軸の中で相違点とともに共通項も見つけるような視点の大切さを話題提供させていただきます。
6月29日(金)の16時からですので、平日勤務されている方は難しいかも知れませんが、JR京都駅のすぐ西側ビッグカメラやアパホテルのすぐ側にあるキャンパスプラザ京都が会場ですので、お越し頂けるととても嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。

不便益システム研究会

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32thまなびあい勉強会

今年度はじめての勉強会を開催します。

第一回目(32th)のまなびあいは美術領域から。
群馬大学教育学部の茂木一司先生をお迎えします。

文具用品のキングジムでは、やはりニッチな商品展開を目指しているようで、役員10名のうちの一人でもオッケーが出れば企画を商品化できるとか。
ことづくり生活でも「ニッチな人々」と呼ぶ、大多数の人とは違う人たちのくくりも社会の中にはあります。

時に「変わってる人」とか「おかしな人」と呼ばれる人たちもありますし、具体的に身体的な欠損や精神的なハンディを背負っている場合もあります。老若男女関係なく支援が必要な人たちもいますし、周囲とは考え方に齟齬があって理解を得られにくい場合もあります。そういった事象に病名をつけることも行われていますが、最近では人を特徴付ける個性としてそれらを認識しようとする動きも起きています。

社会にはいろんな人がいます。
まさに「人それぞれ」です。
少数派を単にマイノリティとくくることにも賛否両論ありますが、多様な価値観を大切にする社会とはどういったコトが必要なのか。

それらを考えるきっかけとして、「インクルーシブ美術教育」と名付けた茂木先生をお招きして、ゆるやかな包み込むようなつながりから社会を見つめるきっかけを頂きます。

みなさまのご参加表明をお待ちしております。

 

期日 2018年6月2日(土)15:00〜18:00
(懇親会は18:30〜)
講師 群馬大学教育学部教授 茂木一司
演題 「インクルーシブなつながりを美術から」
(後半はフリーディスカッション)
参加費 1500円
(講師謝礼のための本会参加費です)
※ゆかいスタイル会員及びまなびあい協力員は1000円
会場 十川東事業所「ともにスタイル館」
募集 20名程度(駐車場18台)

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伝えたい。があること

みなさんには誰かに伝えたいことがありますか?

渇望や切望といった欲求や切ない悩み、苦しい心の内などの人に伝えにくいこともありますし、楽しかった想い出や珍しい出会い、将来の展望や思いついたアイデアもありますよね。更にはふと気づいた自分なりの発見だとすれば、早く誰かに聞いて欲しくてウズウズするなんてこともあるんじゃないでしょうか。

私は人に伝えたいことがいっぱいです。まぁどちらかというと聞いて欲しいことかも知れないですね。そして話す内容を伝えたいというよりも、それをきっかけに使って欲しいという願いでしょうか。もちろん人が楽しそうに話す姿も大好きです。

新設のともにスタイル館では、2018年3月29日からカフェを営業しています。
毎週のメニューを工面しながら組み立て、高松市が野菜たっぷりの食事を提供するお店として認定している「ヘルシーたかまつ協力店」のマークも頂いて、ようやく1ヶ月が過ぎたところです。

そこで「伝えたい」こと。

目の前の畑で採れた野菜を調理して食べるという贅沢を味わって欲しい。
そんな生活は難しいことではなくてすぐ手の届く場所にある。
それは考え方次第だということ。
それを一緒に体現できる場所、それがここ。

枚挙に暇がないですが、これらの共通項は何かと言えば『今の自分にもっと視野を広くもつきっかけを得られればみえる世界も変わってくるよ』ということでしょうか。

お店を例に挙げても、必ずと言って良いほどこのように伝えたいことがあります。
というか、伝えたいことがはっきりしていると、お店の独自性が発揮できますよね。
商売も人の想いを担っていますから、伝えたいことがあるのは一緒です。

その「伝えたい」があること。
そこに込められた意味や価値を拾い出してみましょう。

訴求力のあるシステムか。
イベントとしての場か。
生活を魅力化するテーマや商品か。
出来事を総括できる想いか。。。

ほら。
こうなってくるとなんだかH.E.S.O.思考で見つめられそうですね。

そんな中で私が一番のオススメは、わき出る「伝えたい」想いをまずは書き留めておくことです。このブログも書き留めの一環です。ツラツラ書き留めてきたことを時々掲載しているんですから。

今の自分が感じたことをさらっと受け流すのも良いですが、書き留めておけば残ります。そして確認したい時や同じことを考えた時、悩んだ時や堂々巡りに陥った時などにそれを見返してみましょう。

あれ、当時もこんな立派なこと考えてたんだとか、案外昔の方が真剣に考えてたよなぁなんて面白い気づきにも出会えますよ。

意味的には日記と同じかも知れません。
少々違いを出すには、必ずタイトルなり見出しなりをつけてまとめておくことです。そうするとメモの内容が関連付けやすくなります。
書いた中身につながりや広がりが生まれる余地ができるんです。

まずは自分自身の感じた想いに対して、正直に向き合ってみること。

何のどんなことを誰にどのように伝えたいのか。
のような具体的な内容はそのあとじっくり考えるとして、まずはあなたの「こころ」の声に日頃から耳を傾けてみてくださいね。

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「あいだ」の文脈

「あいだ」を意識する」「どっちが先か」そして「あいだのこと」の関連です。

「A」と「B」のあいだ。

こんなこと,普段から意識しているなんてないでしょう。

善と悪。
子供と大人。
生と死。などの哲学的命題。

列車と線路。
フライパンと油。
血管と血液。などの役割の違い。

他にも,遊びとけんか。のように境界が曖昧であったり。
できないとしない。のように態度で左右されたり。

「境界の現象学」(著 河野哲也:筑摩書房)という本があります。「コミュニケーション理論」でも,その境界については述べられていますので,詳しくお知りになりたい方はそちらをご覧になることをお勧めします。

さて,以前ある方と表と裏,静と動という話をした時のことです。

このときに無意識に「どちらか」を選択しようとしませんか?
どっちが正しいかとか,真か偽かとか,考えたりしませんか?

でも,その「あいだ」に何があるのかと考えると,もう少し深いところまで考えることができるようになってきます。

あいだには差異だけでなく,共通項もあるのですからそれを探してみるのです。

表と裏とは便宜的に位置関係を定めて,一方を表と呼び,その反対を裏と呼んでいるに過ぎません。

例えば,表と裏,で考えてみましょう。
つい,私たちは表をポジティブファクター。裏をネガティブファクターと無意識に分けてしまっていませんか。でも,だれがそう決めたのでしょう?

そもそも表と裏って全く違うものみたいに考えますけど, 表裏一体,という言葉だってあります。
では,表裏一体とはどういう状態なのでしょう。

その対象となるふたつの「あいだ」。
本であればページがいっぱいあって文字化された「お話」が詰まっています。
人であれば人格が詰まっています。
その人のもつ意味や価値も詰まっています。
表面的なことと,内面的なこととも分けられます。
顔で笑いながら批判的な言葉を使うダブルバインド(二重拘束)という用語も,コミュニケーション理論には登場します。

また,暗喩というとらえ方だってできます。
その言葉を提示することで見つめる人の「こころ」に問い,イメージすることを考えてもらうのです。

表と裏に対する答えって,一つではないんですね。

これを見つめたときに考えたこと。
それが,あなたにとっての問題意識にもつながっていきます。

実はあなた自身の思考パターンがそこには現れます。
それを文脈(コンテクスト)と言うこともできるでしょう。
この文脈って,あなたの内にある問題意識ですから,当然そこにはベクトルの強さやバイアスなどもあるんですね。

こうやっていろいろ考える姿勢には,あなた自身が次への展開を予見する活力も伴います。
これを空想上の「活脈学」と名付けて遊ぶのも面白そうです。
活きるための文脈を探る学問,というわけですね。

なんにしても,愉しみながら自分や周囲を見つめること。
そこから様々な気づきやきっかけが生まれてくるのですから,みなさんもいろいろ想いを広げてみてください。

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ベクトルの強さや流れ

今回は「こと」の方向性の強さについてのお話です。

ことづくりの視点は3つの丸が重なりあっています。
研究ではよく行われる象限分け(X軸とY軸を用いて4分割する手法)の方法にも方向性があるように,H.E.S.O.思考(へそ思考)にも方向性は存在します。

例えば,音楽表現の場合。
「作曲」への敷居は高いと感じる人が多いのではないでしょうか。私もその一人です。
身体表現でも,柔軟性に乏しいガチガチな身体の私では,創造性に加えて躍動性も要求されるとほとんど動けないでしょう。
そもそも作曲するにはメロディやリズムと行った音楽的要素の「仕組み」が理解できないと,音自体は作れても人の心に響くような作曲は難しいですよね。

同じようなことは造形表現領域でも言えます。
絵心がないと感じているのに,いきなり「感覚で絵を描け」と言われても辛いですよね。「こころ」で何をどう捉えたら良いかがわからないので,感覚重視の作家などに「無心になれ」と言われても「はぁ?」って感じることでしょう。

もっとも,最近の美術表現はそっくり写実的に描くことなく,なんでもオッケー的な部分も増えてきています。それは音楽でも,身体表現でも同じでしょう。

当然模写が重要であった時代もありますし,今でも模写にこだわる人たちもいます。
工芸分野では,むしろ技術的伝承が絶えないように綿綿と受け継がれていく重要な役割も担っています。

この再現性を基準にした表現姿勢に対して,厳密な再現性にこだわらず即興性重視(「出来事」重視)の表現もあります。
他には知的障害をもつ人が生み出した作品に独特な世界観を感じ取る姿勢を重視する美術館もあって,実際にその作品が高額で売買される状況もあります。

このように,とても幅広い「表現」が混在しているのが現在の社会かも知れませんね。

これらを,ことづくりの視点から方向を見てみましょう。

「仕組み」とは,現在ある理論なり構造です。
(もちろんこれから生まれる未知の内容だってあり得ますが。)
作曲され,メロディやリズムの構造を確立し,誰もがある程度の再現性を基準にして,同じ曲を奏でることができる,枠組みです。
これを用いれば,演奏会などの「出来事」につながります。
スポーツでも,お互い守るべきルール(仕組み)に則って「出来事」を演出します。
どちらかと言えば仕組みから出来事へのベクトルが強そうですね。
そしてその「出来事」に感動するという「こころ」が加わります。

「出来事」と「こころ」でつくる。
例えば子供たちの遊びです。
遊びながら自分たちなりのルール(仕組み)ができあがります。
時にそのルールは,180度がらっと変更する時もあります。
全ては自分たちの都合に合わせて変化させていくのです。

「出来事」と「こころ」の間(空想)。
そこからベクトルが「仕組み」の方へぐっと伸びていくとルールづくりが始まるのです。

ベクトルは,こだわりでありバイアスです。
こだわりとは,強い想い(主観)のあらわれです。
これは「探る」という行為に現れますが,同時に思い込みや偏向(バイアス)も現れます。

これは排除するのではなく,その特質とどのようにつきあうかが大事です。
それはバランス感覚です。
想いは「空想」と「理念」へ伸びる方向性がありますから,自分の想いの外にある「仕組み」や「出来事」と向き合って,新しいじぶんなりのかたちをつくっていく。
H.E.S.O.思考を用いると,自分のこだわりや流れが視覚的に分かりやすくなります。

以前はどうだったか,今はどうか,これからどこに向かおうとしているのか。
未来志向な姿勢を大切にしようとすれば,自分のベクトルの強さがどんな状態の時にどこに向かうことが多いかの特徴を知っておくことは欠かせません。

みなさんも自分自身の特徴を知るために,ぜひH.E.S.O.思考を用いてみてください。

(HP改編準備のため,再編・再掲載)

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ことは「あらわれ」

よくあるのですが、「『こと』ってなんですか」の問いをする方に逆に問いかけると、実は聴いている本人も何を聞いているかわかっていない場合があるようです。

例えば「ものづくり」がありますが、その場でわざわざモノってなんですかとは問いません。それは具体的に対象となるモノが目の前のあったり、用語として括られた明確な概念があるからでしょう。

では、「こと」には具体性がないのでしょうか。
実は、逆にありすぎて選びきれない、というのが正確かも知れません。
例えるなら、モノは小さな専門店の集まり、コトは大規模量販店のような状態です。

静止画を見せても、その画像にはさまざまな「こと」が潜んでいます。
精神病理学者の木村敏が言うように「ことは同一空間に複数存在できる」のですから、写真を見せたからといって同じ想いが伝わるとは限りません。違う受け取り方をする場合もあるし、それはそれで許容される必要があります。
これはそれぞれの感じ方が異なっても良いという絵画鑑賞などと同じですね。

理念の絡む本質を見つめる時には、具体性のあるモノを中心に据えることで逆にずれたりぼやけたりしてわかりにくくなる場合があります。

それは出来事の過程で生み出された産物であるモノ自体が、単純明快な訳ではなく様々な解釈を内包しているからです。一つのことを一緒に考えているつもりでも、受け取り方で議論がかみ合わない場合だってありますよね。

H.E.S.O.思考的に言えば、その「仕組み」を述べているのか、形から受ける「こころ」の印象を述べているのか、「出来事」で生み出されたかたちをのべているのかといった3つの方向性があるから起こるのです。

さて、以前も「かたちのあらわれ」でお話しましたが、今日は別の見方をしましょう。

「コトとは何か」との問いに一番簡潔な返しは「あらわれ」だと、私は考えています。

その「あらわれ」ですが、ネット上にあった「違いがわかる辞典」から引用したのが以下の文章です。

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表す(表わす)は、表に出して示す、表現する、表明するという意味。

使い方には、「気持ちを表す」「文章に表す」「名は体を表す」「図に表す」「顔に表す」などがある。

現す(現わす)は、隠れていたものが見えるようになる、発揮するという意味。

使い方には、「姿を現す」「本性を現す」「全貌を現す」「才能を現す」などがある。

顕す(顕わす)は、広く世間に知らせるという意味。

使い方には、「世に名を顕す」「功績を顕す」「善行を顕す」などがある。

「現す」に換えて使われることもある。

著す(著わす)は、書物を書いて世に出すという意味。

使い方には、「本を著す」「多くの名作を著す」などがある。

このほか、あらわすには「明らかになる」という意味の「露わす(露す)」もあるが、「馬脚を露わす」のように漢文訳された言葉に使われる表記で、「現す」に換えて使われることが多い。

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「あらわれ」とは『外に出る・変化する』ことを確認できる必要がありますから、今回は幅広い意味をもつ「表・現」の2つから迫ってみましょう。

まず「表す」とは、主体がはっきりしている場合です。表し方には大きく4つの領域があって、言語、造形、音楽、身体に分けられます。「顕す・著す」では更に誰が何をどのように、という点などが明確です。

これらは表したい主体が用いることで誰かに届けたい「表し」を受け渡す役割を果たします。メディウムという表現をされる方もいらっしゃいます。「表し」のつなぎ役と言えそうですね。(「顕す」をつなぎ手と考えることも可能です)

次に「現す」とは、それを見つめている主体(私)とは異なる対象がなんらかの動作や作用を起こす場合です。これまでに存在しなかった場所や状況に出現する事態ですから、これは「現れ」としておきましょう。

現れは、こちらの意図通りとは限りません。地平線から月が「現れる」のは、仕組みを理解した上で予測して「現れ」を見つめていますし、頭角を「現す」のは私という主体に対して、対象者が一定の領域を超えて能力を発揮している場合に用いられます。

これらふたつの「あらわれ」は瞬間で切り取れば区別できますが、時間という軸を通してみれば様々に絡み合って連続しています。あらわれ同士の良し悪しも、その前後も明確ではありません。

つまり、あらわれとは「表し」と「現れ」が絡み合う【仕組み】によってひとつになっているのです。現象としてのあらわれは【出来事】を伴いますし、それを自覚し解釈するのは私たちの【こころ】です。このように「あらわれ」にも3つの方向があります。

あらわれをみつめている者の意図の働きを具現化したのが「表し」であり、意図とは違う仕組みで起こす作用が「現れ」となります。

バネは針金がねじれているからこそ価値があるように、「あらわれ」とは表しと現れが「輻輳」しているからこそ価値があるのです。(前述の「顕す」が両者のつなぎ役という考え方もできます)

そしてその「あらわれ」こそが「かたち」という有形無形な状態をつくりだします。

ですから、私は「こと」を「かたちのあらわれ」と呼ぶようになったのです。

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「あいだ」のこと

前回の『「あいだ」を意識する』の記事から半年経ちましたが、今回は別の視点からのお話です。

前回は表や裏、男や女の「あいだ」には何があるかという概念的な問いでしたが、今回は本質的な「あいだ」を見つめてみましょう。

例えば「あなたとわたし」の「あいだ」とは、何らかの方法で比較することで理解できる差異や共通項などですが、この「あいだ」とはどうやって調べると良いのでしょうか。

さて、それではH.E.S.O.思考(へそ思考)に該当させて、「出来事・仕組み・こころ」の3領域の位置づけを見つめてみましょう。
このようにへそ思考は、その本質を3領域から分析的に見つめられるのです。

ひとつは「現実的あいだ」(出来事)※Real
ふたつめは「概念的あいだ」(仕組み)※Concept
みっつめは「感情的あいだ」(こころ)※Emotion

今回はこのように分類してみました。
現実的あいだには時間や空間という物理的に計測できる距離があります。概念的あいだには論理性や意味作用性などがあり、感情的あいだには主観や偏見や感覚などがあります。

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最近は絆やつながりという用語だけが先走り、個としての存在が集団としての「モノやコト」などに縛られた全体主義的な場合も見受けられます。

私は多様性を重視するなら、まずはそれぞれの個が取捨選択できる範囲を広げる必要があると考えています。これは「菜園の哲学」から得た【間引き】から来ています。

前提として人は間引けません。ところが野菜は間引きが前提なのです。
この野菜を間引くという教育とは真逆な行為に身を置くことで、自分の考え方をリセットするきっかけを得ていました。
人は動物ですから移動できますが野菜は植物ですから移動できない、の差異しか見ていませんでしたが、どうやら本質はそこではなかったようです。

改めて共通項を探ってみると以下のような「こと」が見えました。

間引きとは、個の成長を助けるために物理的に距離を空けて風通しを良くして、お互いの根張りによる肥料の奪い合いをさせないために行うのですが、人とのあいだにも間引きを必要とするような同じ状況を感じたのです。

絆やつながりとは、必ずしも距離が詰まれば強固になるわけではないようです。

例えば「昔はコミュニティがしっかりしていた」のは確かにそうなのでしょうが、果たしてそれは多様性の上でのコミュニティだったのでしょうか。
むしろ少数意見を押し殺して、ぐっと堪えていた人もいたのではないでしょうか。

昔のように寄り合い長屋的に人と人との物理的な距離を縮めても、個性を大事にしようとする現在の社会には合わないと思うのです。
これは離隔距離としての「現実的あいだ」の重要性を物語っています。

当然ですが概念的、感情的の2領域にも大切な内容は含まれていて、私たちが見つめるのを待ってくれているのです。

*****

来たい人が来れば良い、やりたい人がやりたいことをやれば良い、というのは当該施設も同じです。これは参加者が参加者自身が考える「あいだ」の中で活動することを意味します。

問題はその先にあって、「来たなら『我々と同じように』やりなさい」となった途端に、本質的な意味での多様性とは言えなくなるのではないかと感じるのです。
とはいえ、集団の中で何でもかんでも自由気ままにやるのは明らかに違いますよね。
確かに制限は必要ですが、便宜上制限しているのであって制限された状態ありきではないでしょうから。

最低限のルールやコンセプトは重要ですし、それに合わせて集まれば極端に価値観の違う人たちのぶつかり合いも起きませんから、当然そういうコミュニティだって必要なのですが、誰かの価値観で縛っておきながら「みんながつながる」なんて言っているイベントを結構見かけるのです。

その「かたち」で、なにがどのように「つながる」のでしょうか。
どこかにその状態を冷めて見つめる目があるのではないでしょうか。もしそうなら、その目は参加する気がないと言うより参加したくても参加できない、声を挙げない、挙げられない、支援の必要なマイノリティのように感じるのです。
私たちの「ことづくり生活」には、自分の思いがあっても自分らしさに向かう声が挙げられない、どうしたらいいか迷っている人たちを見守りたいという願いをもって活動しています。

今回はあいだからつながりへと話が広がっていきましたが、「ひろがる」ことも大切な論点で、日々こんなことをつらつらと考えています。

この「ひろがる」については、また後日に。

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ことづくり茶話会

ともにスタイル館をオープンして、ことづくりのお話をしていた夜あそびカフェを中止していましたが、今度はお昼に時間を移して再開することにしました。

「菜園のある暮らしから」という題目の中で、ことづくり生活ってどんなことなんだろうという問いを、参加者と一緒に考える会です。

情報がこれでもか!とあふれている現在の社会は、何が正しくて何が間違っているかは非常にわかりにくくなっています。
もとより、「正しさとは・間違いとは」の問いなくしてそれらの疑問には答えようがないのですが、ともすれば印象操作的な、思想誘導的な、ちょっと眉唾な情報に惑わされることも多い状態ではないでしょうか。

だからこそ、ちょっぴり哲学的な思考で「本質に迫ろうとする思い」がとても大切だと思っています。その本質に迫りやすくしたのがH.E.S.O.思考です。

今回は、菜園活動の中からきっかけを得て、それを手がかりにいろいろと話を進めてみようと考えています。

第一回 菜園で見つめる「あいだ」 5/5(土)
第二回 「不便」な畑とことづくり 6/30(土)
第三回 栽培は「解釈」と見まもり 8/11(土)

まずは上記の3回を開催します。

時間:14:30〜15:30(1時間)
参加費:500円

どうぞよろしくお願いします。

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GWも営業します

【ともにCafeこっとん】のお知らせ

毎週,木・金・土の11:30から14:30まで営業しています。
「週替わりランチ」と「季節のボウルランチ」の2種類だけですが,野菜ソムリエの資格を持つスタッフが趣向を凝らしてメニューを考えています。

ゴールデンウィークの5月3,4,5日は祝日ですが,木・金・土ですので営業しています。

場所は高松市十川東町1680番地。
香地池のそばです。

どうぞよろしくお願いします。

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