「ま、いっか」
ここにはどんな想いが込められているのでしょうか。
受け取り方は様々でしょうが、私は保留する際に使う言葉と考えています。
哲学の世界には、現象学という考え方があります。
この学問の祖であるエドモント・フッサールは,そのような状態を『エポケー(保留)』と表現しています。
今は答えが見つからない,決断のための条件が足りない,何かしらの判断を受け入れたくない,などで使われます。
「もういいや」ではありません。
「もういいや」には諦めや放棄の気持ちが現れます。
これでは、まだ見えていない未来への道を自分で断ち切ってしまうかも知れません。
これではもったいないですね。
先のことなんて、誰もわかりませんから。
だから判断を保留しておくのです。
「まあ、しゃあないな。決めるのを先延ばししよう」
でも、諦めたわけじゃありません。
一旦置いておくのです。
意識の外に放り出すのではなく、意識の端っこに移動させるだけですが,これは不安定な要素を内包したまま過ごす生活とも言えます。
この「ゆらぎ」を楽しむという姿勢。
例えばAやBのメニューでどちらを選ぶか。
食事のときに「ま、いっか」は使えないですよね。
それではお腹が満たされないですし,とりあえず決めて次の行動などへ進みたいのですから。
だからといって、すべての場面で常に選択を要求されるのも疲れます。そもそも生きるって「そういうものだ」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
人生とは常に選択と決定を繰り返しながら歩んでいる。
そういうものなんだ。
確かにそうでしょう。
でも、無意識に決定を避けている場面だってあります。
気づいていない、もしくは意識的に気づいていないと思いたいことだってありますよね。
ですから「それでもいいんだ」としても良いんです。
先ほどの食事の場面ですが、
AかBか、と言われればどちらかを選択せざるをえないのですが、Cを探る姿勢があれば、ひょっとすると二つの選択から生まれる展開とは違った進展があるかも知れません。
例えば、「そもそも、今ここで食事をする必要があるのか」とか。
時間をずらそうとか、お店を変えようとか。
そういうものだという思い込みをはずし、新たな気づきを楽しむ。
議論好きな方は結構いらっしゃいます。
「で、何が言いたいの」とか、「結論はなんなの」を多用される方には、理解できる価値観で縛った論理構成を求める傾向があるようですね。
すぐに、目的と手段に分類したがる人も、目的が至高の方向だとする傾向があるようですが,手段と目的は常に入れ替われますから,本質を見落とさないように自覚した意識が大切です。
上記の場合ですが,私は手段と目的に加えて本質を加えた上で,ものやことを見つめる態度を養うことが大切だと思っています。
ことの本質がH.E.S.O.思考的な3つのどこにあるかを見つめると,二項対立から三項関係を作り出すことが可能になります。
3つめの選択肢を俎上に乗せた上で、改めて二項の選択に戻ることだってできますからね。
【迷った時には一旦保留する】を意識してみてください。
これが、ことづくり生活の心構えです。こうやって自分と周りを俯瞰していくのです。
他にも「ゆるぎたるぎ」や「おやおや」という呪文もありますよ。
(HP改編による再編再掲)