不便は「事態の背景」から

へそ思考とは、人によって異なる意味や価値を引き出す公式です。決して真理を引き出す公式ではありません。
そこを理解してもらうには、結構な労力が必要で、苦労が続いているのが現状です。

これは不便益にも当てはまるのではないかと考えています。

不便益とは生活を楽しむ見方考え方のひとつで、前回紹介した京都大学デザイン学ユニットの川上浩司先生が提唱しています。とても温厚なお人柄で多様な意見を重んじられていて、ことづくりの考えをまとめる上でも大変お世話になっております。

さてその不便ですが、不便かどうかは「出来事」から見つめられる事実そのものではありません。
なぜなら、その事実の解釈する人の「こころ」によって、不便は判断されるからです。人によって不便を感じさせることが別の人には便利と映ることもあり得ますから。

ちょっと難しく述べますと、判断対象が存在し、その存在を認知し、その認知した対象への関係性における判断規準があり、具体的な判断基準に沿って決定するまでの過程を経て、「不便」が認識されると考えられます。

その不便自体の定義も、人によって異なる姿となる「かたち」は、へそ思考でも見つめられます。

例えば生まれたばかりの赤ちゃんは大人と違って、出来事としての「寝返り」を打てません(出来事と仕組みのあいだにある「機能」の欠如)。赤ちゃん自身はそれが当然ですね。
また、目が見えないという障害をもって生まれた人は、目が見えないこと(機能の欠如)などは当然、というか当人にとってはそれが必然なのです。
これらの必然性を不便と判断してしまうのは、おそらく期待される機能をもった側から比較検証した際の解釈による価値づけが働くからでしょう。

これは比較対象があるからこそ、便利や不便という認識がなされることを意味します。別の言い方をすれば、比較対象が想定されない状況においては不便という判断自体が発生しません。

そうなると、不便の背景とは比較検証者にとっての必然性なのでしょうか。
必然性とは、それ(行為など)をするに足る理由(背景)がその人の中にある状態です。

ここから見つめると、不便の判断は「事態の背景」となりそうですね。
事態とは様々な事象や行為などを含めた出来事(こと)であり、へそ思考で言う「出来事」に当てはまります。そして背景は様々な領域に分かれます。

例えば便利な自動洗濯機を使わずに洗濯板を使用する「背景」には、山奥で電気がない、置くスペースがない。大型しかなくてひとつだけ念入りに洗いたい、面白いので使いたい、嗜好が合うなどが想定されます。

次にその背景に対する「解釈」があり、その人なりの価値づけが生まれます。そこでは機能的な構造や効率などに縛られずに検討する上で、不便という感覚的概念が認知されるのです。

よって、へそ思考で見つめた不便自体の定義は「事態(こと)の背景から生まれる認知判断」となり、益は「当事者の受ける志向的恩恵」となります。

不便の解釈が異なれば判断が異なるのは当然ですし、「これが不便だ」と決めた判断者がその行為の実践者でなければ、それは不便という価値観強制を意図させてしまう恐れがあります。

そこまで行くと不便を見つめること自体が不便となりますし、あるいは不便の概念が権威的に映って、聞いた者の判断自体を迷わせる原因となりかねないからです。

とまぁ、文系的な考え方ならこれで良いのでしょうが、理系的な考え方ではちょっと困る事態になります。

理系と文系の差は「客観があるという前提と、客観とは何かという存在自体に対する問い」と言われます。足元を固めて次を問うのが理系的で、足元すら疑うのが文系的とか、全体主義か個人主義かという分け方もできるようですが、この話は大変長くなりますので別の機会にしましょう。

川上先生は理系の研究者として、具体的客観性を導くことを続けていらっしゃるようにお見受けします。そして「出来事」の中から共通項を導き出す「仕組み」である「不便のつくりかた」12項目を考案しました。

長くなりましたので、その話も次回にしましょうね。

※ご参考までに(ウィキペディアより)
認知基準認識論

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便利と不便のあいだ

前回は不便益という考え方を紹介しました。しばらくはこれに関連する話題を取り上げてみようと思います。

さて、みなさんも不便と言われると、反射的に便利という言葉が飛び出してくるのではないでしょうか。お風呂のお湯を張るのに、ガス給湯器に対して薪で沸かす、のように便利と不便を対立軸で考える習慣は、ほかにもいっぱいありそうです。

では、便利と不便は対立しているのでしょうか。

いわゆる二項対立でコトを見つめると、その二つの間には見えないアマゾン川が流れ始めます。
浅瀬で渡れるところもあれば、橋をかけるのが困難な場所、流れが急な場所、危険生物が潜んでいる場所、何より無数に張り巡らされた毛細血管のような川の数。。。
とまぁ、こういうのをメタファー(暗喩)と言います。

へそ思考では心理学的な用語もしばしば登場するので、ちょっと分かりにくいかも知れませんが、これをきっかけに興味をもっていただけると嬉しいです。

話を元に戻します。
対立軸で見ると、必ず「あいだ」がどこにあるか?という議論も引っ張りだされます。そして境界にある事項を議論することになります。

ケンケンガクガク議論しあうのも良いのですが、あいだの議論というのは困難を極めます。何故なら価値観の相違によって見つめる先が異なるからです。
それをなくそうとする働きが大きくなると、そこに普遍や客観という概念が生まれます。場合によっては超越論までもちだすことになるかも知れませんが。

果たして「あいだ」の答えは導けるのでしょうか。
ことづくりを研究する上で、この「あいだ」について調べた時期があり、精神病理学者の木村敏や発達心理学者の浜田寿美男、教育学者の梶田叡一などの書籍を参考にさせて頂きました。
この「あいだ」のお話は公式ホームページにも記載しておりますが、いつかまた致しましょう。

きっちり分断線から分けることも、曖昧に放置しておくこともできない状況が、ことづくり生活においてはよく起こります。このような場面で望ましい基本姿勢とは、共通項を探る態度なのです。

ではどうすればその態度がとれるのでしょうか。
その、とても簡単な方法をお教えしましょう。

『便利と不便の共通点を探る』

両方に共通することはなんだろうかと、いっぱい頭をひねって、多くの人と志向的な議論を重ねるのです。

せっかくですからひとつ事例を。
空と海のあいだはどこにあるのでしょう。
海面ですか?
本当にそうですか?
海面が存在しなければそれは海ではなく水の中です。では、海面から1ミクロン上は空と呼べるのでしょうか。
この際のひとつの回答は、あいだを見つめている者がどこにいるかに隠れています。さぁ,もうこれ以上はやめておきましょう。
あとはみなさんで考えてみてください。

他には、表と裏のあいだとか、正義や悪のあいだ、のように一般的に相反すると思われる事象の「あいだ」を議論し合うのです。これがティベートと根本的に違う原理で議論しあう方法です。そしてこれにへそ思考を重ね合わせるのです。

あなたにとっての「あいだ」。
さぁ、どんなことがありそうですか?

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不便益という考え方

世の中には効果や効率のみを考える人たちばかりではありません。
遊びゴコロを発揮した見方や考え方を提唱している方もいらっしゃいます。

今回ご紹介する不便益とは、京都大学デザイン学ユニットの川上浩司先生が提唱する、生活を楽しむ見方考え方のひとつです。

不便と益という、パッと見た感じでは相反するような内容を並べてつくった造語に惹かれます。

最初の出会いはBSフジのプライムニュースでした。それを見てとても共感し、いきなりメールを出したのです。
ありがたいことにすぐお返事を頂きましたので、京都大学までお伺いし、まなびあい勉強会にお招きして、その後は川上先生の勉強会に時々参加させて頂いています。

不便益システム研究所

へそ思考で見つめると、効果や効率は「出来事」と「仕組み」の関係性から生まれます。
不便益という仕組みから具体的な出来事を探し出し、それをモノやコトに置き換えて実践し、こころで遊びゴコロを感じ取ります。

例えば素数ものさし。
素数で定規を作っています。
2、3、5、7、11と、数値が連続していません。でも1、4、6などはその素数の「あいだ」に存在しますから、数値はそこを利用することで測ること自体は可能です。
これは不便なコトをモノのかたちで具現化しています。

左しか曲がれないツアーというのもあります。
右に行きたいところがあれば、何度か左に曲がって辿り着かなければいけないのです。

このような「かたち」は、遊びゴコロがなければ面倒臭くて迷惑なことです。そう考えると、不便を楽しむにはこころに余裕が必要であることが分かります。

これからの社会には、このようなこころの動きを促すような仕組みのかたちがとても大切になってくると感じます。そこには多様性や自覚性と向き合うための仕組みと出来事がたくさんあります。

みなさんも、便利で効率を考えるだけでなく、遊びゴコロを見つめた「不便益」で生活を楽しんでみませんか。

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人は何を身にまとうのか2

前回は、モノだけでなくコトを身にまとう話をしました。今回はもう少しコトについて考えてみましょう。

ことづくり生活では、未来志向という言葉もよく使います。
では、今より向上するために、人はいろんな知識や技術を身にまとうのが良いのでしょうか。

もっと先に進みたい。
それは東京〜大阪間のような物理的な距離ではなくて、自らが思い描いた心の地平の先にある目標とも言えます。

では、どうやってそこに到達するかの手段を取捨選択しながら試行錯誤しつつ先を目指しましょうか?

このままだと「手段と目的」論になりますね。目指すべき「具体的な」方向があって、そこへ向かう「具体的な」方策がある。それが手段と目的です。

これなら内容はともかく、漠然と自分が何を求めているのかわからない人にも「具体性」を見つけなさいと明瞭な指針を示すので、人は分かりやすさを感じるでしょう。

でも、前進不可能な何らかの障害に出会った際に、軌道修正や方向転換はどうしましょう?
具体的に指し示す何かがあるのでしょうか。

私は何か違う気がしています。
手段も目的も、本質を見つめる時の「解釈」によって意味や価値が異なってくるのは以前にもお話ししたことがありました。

「挫折」すらも手段や目的だとする考え方もあります。
でも、それは成功した者が言えることです。渦中の人はそんなに余裕はなくただ迷い苦しんでもがいているのではないでしょうか。

そうなると、落ち込みやすいのは超越的な世界へ。
安心を求める行為へ。
さらには主観を超えた存在があるという前提が必要となります。

そして普遍性とか客観性という言葉に一般的価値があると考えるようになります。なぜならそれに耐えうる知恵を持ち合わせないからです。

自分の価値観を具体的に成就させるために、巧みに人を利用しようとする人をいっぱい見ていると、天邪鬼な私としては利用されない生き方をしたくなります。

選ぶのは常に個人の意味づけや価値づけであって、それが自覚的にできるような投げかけ(提案や提起など)が大切だと思うからこそ、ことづくり生活をみなさんに提案し続けたいと考えています。

人が身にまとう「こと」。

それはきっと知識や経験から得られることだけでなく、対立の中でこそお互いが「受け入れるのではなく、受け止め」ようとする姿勢かな、と思えます。

そうすることで、肯定的試行錯誤である未来志向の姿勢が活きてきます。
これはどんな知識や経験、技能レベルの人でも共通して行える「こころ」の覚悟ではないでしょうか。

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イチゴの収穫期

今年もイチゴの収穫期を迎えました。
すずなりになった赤い実を見るだけでもウキウキします。
ここはイチゴしか植えていないイチゴエリアです。
連作障害など全く意に介していません。
今年は豊作です。

毎年この苗たちが夏を越せるのだろうかと心配になるのですが、今のところ子や孫の株を増やしながら、植え替えもしながら、なんとか続いています。

花の咲き始めた4月には敷き藁をして収穫の準備をしてきました。実が土に触れると傷みやすいので敷き藁は必須です。

売り物になるような収量も大きさもありませんが、ほんのり酸味を帯びた生命感あふれる味がします。

今日はヨーグルトに混ぜて頂きました。
やっぱり旬の野菜は良いですね。元気になるだけでなく、気持ちも穏やかにしてくれます。

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人は何を身にまとうのか1

畑の野菜たちは品種にもよりますが、実になる野菜であれば基本的に種から芽を出し、葉を茂らせて大いに成長し、実をつけます。
葉物と呼ばれる、葉を食べる野菜たちも旬を過ぎれば花を咲かせて種をつけます。
根物と呼ばれる人参など根を食べる野菜たち、ツルを伸ばすさつまいものような野菜たちもいます。

共通して言えるのは、身から生産した物質を身にまとい、成長し、その役目を終えて次の世代へと命をつなぐということ(「出来事」や「仕組み」)です。迷いなく、ただ一途にそこを目指しているかのようです。

一方、人は密林で猿や狼に育てられたのでもなければ、裸のまま一生を過ごすことはないでしょう。

産まれておくるみ(肌着)に包まれ、成長の過程で暑さ寒さをしのぐ衣服を身につけ、嗜好によって気分によって身につける衣装を選択し、最期も見送られる際に白い装束に包まれます。

着衣というモノ以外はどうでしょうか。

装身具(アクセサリーやバッグなど)や自家用車などの移動手段、住む場所までに話が広げることもできそうです。

食べるものでも、健康を身にまとうという考え方もできそうですね。
その場合の「健康」は、モノをきっかけにした機能や考え、つまりコトです。

人は生きているという日常生活の過程で、非常に多くの「こと」を身にまといます。実は人に限りません。ただし、それを自覚的に意識している生き物はほとんどいないでしょうけどね。

価値観や信仰心、正義感や罪悪感などの「こころ」。それら今を生きる世界を構成する「仕組み」や培ってきた「出来事」など。

これらはモノ(物質)ではなく、コト(事象など)です。
あなたの心に積み重なってきて、そしてこれからも積み重なっていく「こと」。
それらを自覚的につくりだして行こうとする姿勢がことづくり生活なのです。

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野菜の花たち

ゴールデンウィークを終えて、畑に夏野菜の花たちが咲いています。

ゴールデンウィーク前半には珍しい野菜たちが並んでいましたが、みなさんの中でも購入して植えてみた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

この時期は五月病と言われて、4月に頑張りすぎて元気がなくなりかけている人も増えます。
夏に向けてのワクワクを感じながら野菜を植えてみるのも結構元気を取り戻すきっかけになりますよ。

良かったら一緒に楽しみませんか。
ぜひ、一歩を踏み出してみてください。お手伝いしますよ。

一つ目は伏見甘長の花。右側にはすでに実が付いています。

二つ目はひまわりズッキーニの花。今は行灯で守っています。もう少し葉が増えると行灯を退けます。

三つ目は千両2号の花。スーパーなどで売られている一般的なナスです。

来月の収穫祭までに調理の素材になるように願いつつ、毎日様子を見守って行きますね。


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モノに縛られない生き方

芸術家はモノに(或いは「から」)、造形させられているのでしょうか?
私たちはモノに(或いは「から」)、示唆させられているのでしょうか?

江戸時代の円空という仏師は「木の中に仏がいるのを掘り出している」と述べたとか。同じような感覚的事象を述べる作家は結構います。
これを額面通り解釈すると、木の中に仏がいて、作家がそれを掘り出している、いわば何者かに作らされていることになりますが、これはメタファー(暗喩)と理解しないと話がややこしくなります。

有名どころでは「時は金なり」。時間がお金だという事実を示す事柄ではないですよね。これを理解するには両者の関係性を紐解く必要があります。
(暗喩の話はいずれまた。)

ある著名な芸術分野の研究者の講演で質問したことがあります。
「モノとコトをどう捉えていますか?」ー

答えは「考えていない」でした。分けて考える必要はないとまで言われました。

モノの理解には物理(即物)的対象の要素が、コトの理解には認知(情動)的作用の要素が大きく関わっています。
もし、分けて考えるという前提なしにふたつの関係性を分析的に見つめることができるでしょうか。きっと曖昧な要素を理解できずに困難を極めるでしょう。

全体と部分、一般的判断と個人的判断も分けることが難しくなり、その境は個人の主観で大きく異なる認識や解釈などを説明しにくくします。

分けない理由のひとつには、モノ(対象)には特定の意味があり、鑑賞者には争うことのできない絶対性が押し付けられることを意味するのでしょうか。

懇親会の際には現象学的な視点を例える際に用いられる赤いリンゴの話をしますと、ご本人は考えたことがないのか、このような議論は不毛だとお感じになったのか、議論を避けるように無言で離れて行きました。

多くの著作を出版している批評家であっても、結局は自分の主義主張(イデオロギー)を根本から見つめているわけではなく、主義主張を理解させる「手段」の範囲内で芸術批評があって、鑑賞者の目線にまで降りているわけではないのかと、妙に寂しくなったことを思い出します。

日常生活で、ごく普通に生きる。
そこに曖昧さは必要です。

特に芸術領域では。
確たる答えがないからこその楽しさがあるからです。新しい芸術の発現も、曖昧さの中から生まれてくるのではないでしょうか。

それを見つめるためには、どういう曖昧さがあるかを自覚しておくことも大切でしょう。

どうして楽しいのか、ザワザワするのか、がっかりするのかなど、自分なりの理由があって、その根拠を探せないと、なぜそういう解釈をしたのかが分からなくなります。

大事なことは批評家が述べる論ではなく、わたしたち自身がどのように解釈するか、だと思うのです。
(「事実と根拠と解釈と」もご覧ください)

何よりも、色や形や素材などを組み合わせ、それら組み合わさったモノを解釈するのは人の「こころ」が行うコトですからね。

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ニンニク試し堀り

昨年の秋に植えつけたニンニク。
何年目でしょうか。今年も収穫の時期を迎えました。
少し前はニンニクの芽を食べました。
ほのかにニンニクの香りがあって、滋養に良さそうな感じでした。

すこし試し堀りをしました。
昨年は大きなのが少なかったのですが、今年は大きめのが多く、嬉しいです。

香川はニンニク収穫量が全国2位とか。
そしてこれからは発酵食品である黒にんにくも出回ってくるでしょう。

みなさんも安心安全な食材を味わってくださいね。

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珍しい野菜たち

ホームセンターの園芸コーナーで売られている野菜たち。

最近は品揃えが豊富になったと感じます。
ひょっとすると以前からあったけど,見ていなかっただけなのかも知れませんが,珍しい野菜たちが並んでいます。

3月に春植えの野菜たちが店頭に並びはじめ,4月を過ぎると夏野菜に向けての苗が多く出回ります。
そんな中,ゴールデンウィーク前半になると,少数ですがスーパーでは見かけないような珍しい野菜が並ぶのです。

今年はズッキーニにこだわってみました。
昨年は3株植えて2株枯らしてしまい,とても後悔していましたので,今年はリベンジです。

他には白いナスも。

彩りが様々な野菜立ちの競演を愉しみに,大切に育てようと思います。

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