不便益による概念崩し

不便益を「不便×益」足らしめている理由。それは多様な解釈です。
立ち位置により異なる価値観です。

・非効率であっても、非生産性ではない。
・不都合であっても、不必要ではない。

川上先生は、ここに不便益の原則があると述べています。
なるほど〜〜
非常にわかりやすい表現ですね。
「非」や「不」というネガティヴ要素から、そこに込めたい価値に対応する必要な根拠を見つめています。

こういった根源的な見つめかたは、人によって大きな「ゆらぎ」も起こします。
本当とは何か、とか、正しさとは何か、という深い議論にまで導かれることもあるでしょう。

このゆらぎ。
美術教育では、概念くずしなどで用いられます。
既成概念に疑問符を加え、違う切り口でとらえ直す考え方です。

たとえば、蛇口をひねったら水が出てくるのが当たり前です。でも、蛇口をひねったら鯨が出てきたらどうでしょう。

そんなもん、出てくるはずがない!
と言い出せば、楽しい発想は生まれません。
あり得ない! という感覚から新しい発想や構想を導き出す方法のひとつが概念くずしなのです。

なぜここで美術教育を引き合いに出すのでしょう。
それは、不便益には想像性と創造性の両方が必要だからです。

それを「芸術的な思考」というとらえ方もできます。芸術思考で有名な理論はアメリカの教育学者であるハワード・ガードナーの多重知能理論(MI理論)でしょうか。
この理論の中核にあるのは、「知能は単一ではなく、複数ある」「人間は誰しも複数(現在は8つ)の知能を持っている。長所やプロフィールが個人によって違うように、人によってある知能が強かったり、ある知能が弱かったりする」という考え方です。

複数の知能を組み合わせることであらたな思考をつくるのです。
なんだか不便益をつくるときのプロセスに似ていますね。

※〜※

さて、これまでを振り返ると結構な数の不便益のキーワードがでてきました。
前述の川上先生の言葉に意味や価値などの具体性を見つめる際は、おおよそ以下のようになるのではないでしょうか。

・柔軟な観点と遊びゴコロ
・二項対立より共通項探し
・判断対象は事態の背景から
・対象や作用に向かう態度
・随意性による概念くずし
・あなたにとっての必要性

あなたにとっての不便益、どう使ってみたいですか?
※今回の参考資料:多重知能理論の概要 恒安眞佐(芝浦工業大学)
http://sky.geocities.jp/society_of_mile/page007.html

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無意味の意味

ことづくりでは意味や価値とか、意味づけや価値づけといった用語が良く登場します。

さて、お尋ねです。
「無意味の意味」という言葉をご存知でしょうか。

「コトってなんだろう」と、ぼんやりと考えていた頃に、木村敏の著書「自分ということ」の中で「意味がないのを探すのは難しいが価値のないものは結構ある」という言葉に触れたことを今回は紹介します。

人は論理で考えます。
考えた時点で論理が働きます。
無意識も、無意識状態の時はわかりませんが、無意識とは何か、と向き合った時点で論理が発生します。

つまり「意味がない」というのは、「意味がない」という意味をもたせた論理の構成と考えられるのです。

これが無意味の意味です。

では、無価値の価値、という表現は有効でしょうか。

価値とは、その前提に役に立つとか有益であるとか利用できるなどのモノやコトなどに対する判断としての「意味」が与えられると考えられます。

事象そのものの存在を問う「意味」に対して、事象の肯定的解釈によって与えられる「価値」という違いがありそうですね。

つまり否定的解釈だと、無価値という判断になりうるのです。

意味ー事象自体への問い
価値ー事象の肯定的解釈

またしても「解釈」というキーワードが出てきました。

こうやって、いろいろ調べていると「無意味の意味」という書籍も発見しました。

紀伊国屋書店(1977発行)

公営の図書館にもあるでしょうが、ことづくり生活事務局でも閲覧可能です。

今回も、なかなかに哲学的なお話でした。

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不便益と随意性

先日の「不便益が見つめる先」の中では、不便益を考える上で自覚性と主体性が大切という話をしました。
今回はそこをもう少し掘り下げてみましょう。

不便という概念は、自覚を伴う認知判断が必要です。
仮に無意識行動のひとつとするなら知覚した行動ではないくなりますので、不便も認知できないことになりますから。
これは「便利」でも同じ理屈が適用されます。

不便益とは、不便を見つめる比較対象や関連作用が必要な行動様式です。
このあたりはこれまでにも述べました。

牛車の例をもう一度取り上げてみましょう。
そこには「比較対象よりも時間の消費量が多い」という効率(出来事と仕組みのあいだ:「機能」)に対する消極的要件(ネガティヴファクター)がありました。
日々忙しく移動しているビジネスマンが牛車を選択する必然性はありません。

ただし、敢えて時間的余裕を創出したい場合は異なります。
では、それはどういった状態なのでしょう。

これは「出来事」の領域にある、事象(フェノメノン)の中の過程(プロセス)を見つめているという説明も出来ます。
その認識の根っこにある「事態の背景」については以前お話ししました。

・飛行機という乗り物は速くて便利です。しかし乗り換えや保安検査場などが大変で面倒です。ですから鉄道を選択します。
・携帯電話はいつでも連絡が取れて便利です。しかし常に監視されるような感覚になって迷惑です。ですから持たない選択をします。

これら選択肢の内にある過程(プロセス)の内に、益の要素があるとも考えられます。

すなわち、不便益とは様々なシチュエーションが想定可能な普遍的性質に対して等しく意味や価値が固定されているわけではなく、判断する者の見つめかたに左右されることを意味します。

以前も必然性について述べました。
不便とは必然性ではなく、『あなたの必要性』から生まれる「こと」です。
どこかに必然性(客観性)がある、と考えている間は、価値観の相違からくる解釈の相違を克服することは難しいでしょう。

ところが,見つめる人の必要性から生まれるとなれば、非常に自然でわかりやすくなります。
それは見つめる人の主観から導かれるのですから、心理学的な思考の流れも明確になるからです。
そこには主観同士をつなぐ「間主観」という捉え方が大事です。
そのお話はいずれ機会があれば。

不便益は誰かに与えられる「こと」ではなく、あなたの中で沸き起こる「こと」。
あなたにとっての成長を促す「必要性」。
それを操るには自覚性と主体性が欠かせない、となるのです。

学習の仕組みとしての「最近接領域の発達」で有名なロシアの心理学者ウィゴツキーは、発達に必要な要件として自覚性と随意性を挙げたそうです。
随意性とは、既成概念に縛られずに自由にモノやコトの関係性を探る性質です。
思い込みやこだわりに固執せず、異なる価値観や違う視点で自由に自発的に様々なことを見つめたり取り入れたり、組み上げたりなどをする姿勢です。

不便か便利かという二項対立的な比較検証は、不便益を楽しむ上であまり重要ではありません。
結果として、比較対象の状態よりも楽しめていれば構わないのですから。

『遊びゴコロ ー ワクワクしながら楽しむこと』
それは自分自身のこころを広く開くためのポジティブファクター(積極的要件)です。

そのためには、随意性(思い込みなどの縛りなく自由に発想構想を広げる性質)が、ことづくりにも、不便益にも、とても大切なことだと思うのです。

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答えはあなたの中にある

不便益のところでも登場した、主観と客観という構図は、実は「何を」「どこを」「どのように」見つめているかなどを、非常にわかりやすくしてくれます。
ことづくり生活では一般論を鵜呑みにするのでもなく、”どこかにあるかもしれない”客観よりも、主観の方を大切にしています。そして主観をもった個人の集まりも大切にしています。

美術教育の場面で同じ活動を同じようにさせる模倣的活動もありますが、この場合の出来上がりはみんながほぼ同じになります。そこで要求される能力は完成度、つまり知識技能(技術)の集大成としてのモノです。

ところが表現作品(モノ)の出来上がりが全く異なる問いかけもあります。「想像してつくる」活動です。この場合は、その対象に向かう想いがどれだけあるか、どこまで深く掘り下げたかなどのプロセス(過程)が重要です。

教育用語で表すと、前者を能力形成、後者を態度形成と分けることもできます。過程重視の姿勢では、資質能力の面から深い学びや人間性などにつなぐこともできます。

先ほどの子供に絵を描かせる場合のことです。
まなびあい勉強会にお招きした際の、兵庫教育大学副学長の福本謹一先生のお話です。
おひな様を描かせたいろんなシチュエーションの絵を提示してくださいました。
そしてその絵の投げかけは「おひな様はずーっとすわりっぱなし。ひな祭りが終わったらなにをしたいのかな」だそうです。
そうすると、バスで旅行に出かけたり、遊園地に行ったりとさまざまなことをさせた絵を描いています。

これは「学びのしかけ」と呼ぶこともあります。これによって子供たちは自分の生活に落とし込んで様々な発想を広げます。

サンタクロースの事例もご紹介頂きました。
冬のサンタを描かせるとみんなほぼ同じになるそうです。ところが夏には何をしているかの絵を描かせると、子供のさまざまな発想が絵のテーマに発揮されるそうです。多様な姿や行動のサンタさんが登場するようになるのです。
これは大人が描かせたいサンタではなく、子供が描きたいと思ったサンタです。

この事例からも「答えは常に子供の中にある」という指導者の首尾一貫した態度がうかがえます。これは多様性を重視した活動の一環とも言えます。

このように、何を手掛かりに、何を参考に、何を根拠にしても、最終的な答えはあなたの中にあるのです。

独我論とは自分の意識のみの存在で帰結します。懐疑論は自分すらも否定します。
様々な理論がある中で、ことづくり生活では現象学的な立場を取ります。あなたの主観と私の主観、そこにある共通了解を探りあう姿勢。
答えは誰かに示されることでもどこかにあることでもなく、あなた自身が探し、あるいはお互いに、引き出し導きだし、そして組み合わせたり高めたりしながら未来志向を大切にする姿勢。

これがことづくり生活において大切にしている
・自分を大切にする
・自分と周りを俯瞰する
といった基本姿勢となるのです。

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不便益が見つめる先

不便と益を重ねた不便益という造語は、普段意識していない視点を提供してくれます。
当然だと思っている視点に疑問符をつけてくれるのです。

この不便益を定義する際に仕組みや出来事だけを見つめてしまうと、こころを取りこぼしてしまう恐れがあります。

例えば、目の不自由な方に「見えないのは不便ですね」と言おうものなら「どうして不便だと思いますか」と逆に問いかけられたというお話があります。

「そのおかげで、私は肌への刺激や匂い、音などにとても敏感に情報と触れあっています。きっとあなたよりも、ずっとそれらの感覚に注意を払っていると思いますよ」

目が見えているからといって目の前にあるモノやコトを、正確に緻密に分析的に見ているとは限りません。

こういった問いかけは美術領域の「対話による鑑賞」を推進しているACOPでは、よくある質疑として取り上げられているようです。

不便益から本事例を見つめた場合、「目が見えないという不便に対し、別の感覚器官が研ぎ澄まされるから益だ」となるのでしょうか。
ここには議論の余地がありそうですが、別の感覚器官が研ぎ澄まされることに「よって」、『別の何かに応用できる力を身につけた』のであれば、それは志向的恩恵ですから益になると考えても良いように感じます。

代替の機能が磨かれたとしても、主たる目的に使用する機能(対象機能)に対する補完的な使用が益となるなら、「電車に乗り遅れたからタクシーで移動した」までが不便益になってしまいます。
これは「出来事」から、同類の「機能」を備えた「出来事」へ乗り換えただけです。空間の移動を素早く行う「仕組み」が複数あって、それを選択したに過ぎません。

では、牛車にすればどうでしょう。
不便のつくりかたでは、「アナログにせよ」というのがありました。
比較対象より時間がかかる移動方法を採用すれば不便とは言えます。

ですが牛車に乗っても自転車でも、その選択で生じた多くの時間の使い方など(移動するプロセスにおける他の感覚や知覚や思索などを刺激する「出来事」)を自覚的に主体的に考えられないと、単に時間の浪費になります。
ところがここで判断を難しくしているのは、判断者の日常生活に踏み込んだ先にある比較要件、つまりそこで生じる作用の受け止めです。

普段分刻みで行動している人にとって、半ば強制的に時間を拘束し、何もやらせないのは不便であり、害です。ところが精神的な余裕をつくるために敢えて時間を束縛することでなにもさせない時間とさせる余暇確保も起こり得ます。

これは、同じ事象であっても視点や立ち位置によって、判定者がどのようにでも結論づけられることを意味します。

先に紹介した素数ものさしも、志向的な『遊びゴコロ』から益とする判断しています。
もしそうでなければ、例えば22mmを計測し、数カ所に同じ長さで線を引くなどの用途には、害にしかなりません。

別の事例で「かすれるナビ」というのがありますが、ここでは「無駄(過多な情報を取り除く:「正確さの排除」)をなくすという無駄(経験的記憶に頼る:「曖昧さの容認」)をつくりだす」と表記できる相反するような状態も生まれます。双方の「無駄」に対する視点や価値観が違うと言えます。

益の中には「オレ様感がある」という項目がありますが、まさにこれが「こころ」に起因する独善的な主観判断です。

つまり不便益は、恋愛感情にも似た「仕組み」を要求します。
必ずしもイケメンがモテるわけでも、嫌なところがあっても嫌いになるわけでもなく、各人の嗜好という「こころの仕組み」に左右されるのだと理解できます。
これを「しかけ」と呼ぶことも出来ます。そのお話はいずれまた。

へそ思考で見つめると、出来事などを「不便益」で分類する必要も必然もなくなりそうです。
あると信じても、ないと信じても、そこには二項対立が発生します。それは何よりも「こころ」による解釈が根っこにあるからです。

「あるようでないし、ないようである」とは、なんとも面倒臭い構図ですね。

だからこそ不便益を見つめることはとても本質を深く探れますし、新たな視点の提供という、アーティスティックな、新鮮な驚きに満ちた活動になるのではないかと、私は考えています。

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かたちの「ふへん」な意味

今回は「ふへん」として不変と普遍という二つの言葉を取り上げます。

ちょっと調べてみました。
ごく簡単に言うと、普遍は性質が変わらないことであり、不変は形相や事象が変化しないことだそうです。

ことづくりの視点で見つめると、性質も事象も、「仕組み」と「出来事」の間で構成されます。
例えば鉄の塊は、ドロドロに溶けても化学式に示される鉄という意味が消えることはありません。
鉄橋は、鉄という素材を用いますが壊れたり錆びたりします。ここでは鉄という素材は普遍ですが、かたちや状態は不変ではありません。

物事を突き詰めていくと、人は普遍というか真理というか、絶対的(超越的)な意味をもつ「何か」を求める傾向があるようですね。運命は遺伝子に刻まれているとか、神の存在だとか。

『〇〇とは〇〇である。』

上記のように、シンプルな結論に帰着すると、それ以上疑問を抱かずに済むからでしょうか。

人は信じたい事柄が提示されると信じ込んでしまうタイプと、私のように疑ってみるタイプがいます。
自分が共感を感じる著名な研究者や有名人の発言には特にそうだと思い込みたいとする心情が働くようです。これは偏向バイアスと呼ばれます。

今回のタイトル「かたちのふへんな意味」も、今回のルール通りの文言です。それに対してみなさんはどうお感じになったでしょうか。

おそらく「そうかなぁ〜」と、なんとなく感じながら、この話の矛盾点が探せないかと感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さて、もう少し自分や周囲を見つめてみましょう。

大学で図画工作指導法の講義を担当した時のことです。ある学生が言いました。
「言語活動の充実が言われてますけど、図工ぐらい言語活動から切り離しても良いんじゃないでしょうか」

私自身としては「図工ぐらい」「言語活動は必要ない」という意見には全く同意できません。自分の内的表現のみで満足する教科であれば、義務教育における実施根拠が怪しくなるからです。
でも、その学生が抱く素朴な疑問には共感できます。

ですから

「それが正しいと思うなら、その理由をとことん探ってみて欲しい。ひょっとすると君の意見が正しいと多くの人が納得できる説明をできるかもしれないね」

と話しました。

今、美術教育の世界で言われていることが絶対、と思わないで、本当にそうなのかと常に疑問をもつことを伝えたつもりでしたが、さて学生がそこを理解できたかどうかは講義終了後にお会いする機会もなかったのでわかりません。

でも探っていくうちに、きっと自分なりの答えを修正したり深化させたりできると信じています。

別のたとえをしてみましょう。

カラスが巣づくりにクリーニングで用いられるハンガーを集めて使っていた、というニュースを随分昔に見ました。

人間がもつハンガーの意味と、カラスが見つけた意味が同じである必要はありません。
硬くで丈夫だけど、力をかけると自由に曲がり、自分が意図する方向へ変形させられる、という「仕組み」を利用し、「出来事」へと活用しています。

これは木の枝などではできないことです。カラスの「こころ(認知行為)」が都合に合わせた解釈を行なったと言えそうですね。

つまり、ハンガーのもつ意味とは、ハンガー自身がもつのではなく、それを認識した側の「こころ」に委ねられています。
つまり、かたちに込める意味は「見つめる側が決める」のです。

芸術の世界に目を向けてみましょう。

造形表現のカタチとして「ものづくり」が行われますが、ここに今回の二つを当てはめると、そこでつくられるモノ自体の「普遍」的な形相(色や形材質など)は変わりませんが、解釈から導かれる意味や価値は「不変」ではない、となります。

誰かが何か(先行研究など)の基準を土台にして考案した理屈はありますし、それにはそれで大事な学術的価値が込められていることでしょう。
しかし、人がものに関わり、自分なりの意味を見つめる。そして個人の心の内に生じた未来志向の姿勢の中で、芸術作品は初めて効力を発揮するのではないでしょうか。

今、目の前のあなたに関わる「モノ」のかたちに意味をもたせて価値づけるのは、製作者でも評論家でもありません。
他でもない、あなた自身なのです。

普段から、あまり他者の意味や価値に引っ張られ過ぎないように、自分の見方感じ方考え方などを大切にするきっかけとして、ことづくりの視点(へそ思考)をご活用頂ければ嬉しいです。

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不便のつくりかた

先週からの続きです。

不便益について、川上先生と一緒に研究をしていた学生が不便の発想をサポートする項目をまとめたそうです。
まずはその「不便益原理」項目を見つめてみましょう。

1 限定せよ
2 劣化させよ
3 大型にせよ
4 操作数を多くせよ
5 時間がかかるようにせよ
6 アナログにせよ
7 刺激を与えよ
8 危険にせよ
9 情報を減らせ
10 操作量を多くせよ
11 無秩序にせよ
12 疲れさせよ

そして得られやすい益は以下の8つとしています。

1 主体性がもてる
2 工夫できる
3 発見できる
4 対象系を理解できる
5 俺だけ感がある
6 安心できる、信頼できる
7 能力低下を防ぐ
8 上達できる

どれもひとつひとつをみつめていると、生活に落とし込んだ具体例がなんとなく頭に浮かんで「なるほど〜」と同意できます。

これら全てが含まれていなくてはならないわけではありません。これをきっかけにして、より具体的な実践できる「かたち」をつくることを目的にした項目立てです。

「かたち」には、見えるかたちと心で感じ取るかたちがあります。不便益では、そのモノとコトの両方へアプローチする手法として紹介しています。

(過去記事)※かたちのかたち ※仕組みの「かたち」

12項目を遡れば「不便益とは何か」が見えてくるわけではありません。

あくまでもきっかけづくりです。
ですから、あまりカリカリせずに、これをヒントに未来志向で考えましょう。そしてその過程を楽しみましょう。

一緒に、これはどうだ、これは違うのか、とワクワクしながら会話のネタになると素敵ですね。

本気で不便益を見つめようとすれば、次は単にワクワクだけでなく、より「機能(構造や効果など)」に「こころ」を込めた「出来事や仕組み」を考える姿勢が生まれます。

そうなると、不便益についての質や量を考える段階になるわけですが、まぁ普通に生活しているとそこまで突っ込まなくても良いんじゃないかなと思います。

面白そうだから考えてみよう!
という方がいらっしゃいましたら、ぜひ不便益システム研究所のホームページも訪問してください。

不便益百景ではいろんな情報が掲載されていますし、みなさんのアイデアも募集していますよ。

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菜園「へるぷっ!」

財団を設立する前からひとりではじめた菜園活動は、現在「ともにスタイル」としての菜園活動に移行しています。参加者で野菜を育てて、収穫を、調理を楽しみます。

よくある市民農園のような区間貸しをしているわけではありません。
みんなで同じ区画を手入れし、肥料や苗を購入し、手入れをして収穫を楽しむスタイルです。

ですからお互いに補い合って活動することが出来ます。
自分が参加できないときの耕運に始まり、植えつけや支柱立て、水やり、草抜きなどを一緒に行います。

現在3名で行っていますが、みなさんお仕事をお持ちですからなかなか揃って活動することができません。

現在は、もう少し収穫量を増やせるとカフェなどのランチに提供できると考えて栽培区画を広げたのですが、ちょっと大変になりつつあります。

「ともにスタイル」の菜園活動は、会員になって頂いた方が参加するスタイルですので、まずは会員になって頂くことが必要なのですが、

1 菜園活動に興味があって
2 自分で農園を借りてするほどではなくて
3 初めてだから教えてくれる人もいて
4 働いた後に休憩する場所もあって
5 自分が忙しいときもあるのでお互いに作業をしあって
6 育てる野菜をみんなで決めたり
7 育っていく様を愛おしく見つめたり
8 安心安全の食材づくりをしたい

というような方の希望に沿った菜園活動が可能です。

興味がある方のご連絡をお待ちしております!

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多様性が向かう先

不便益も、美術も、最近は社会の中でも登場する「多様性」ということば。
みなさんはどのような印象をおもちでしょうか。

はじめにウィキペディアをのぞいてみましょう。

「多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。」
とあります。

なんだか分かるようでわかりにくい説明ですね。
まぁ、そういう説明の仕方もあるのかも、ということもまた多様性だったりするわけですね。

他の辞書を覗くと、多くの種類や様式や傾向などが同じ場に存在しうる性質を示す用語のようです。

さて、例を挙げてみましょう。

イスラム国という極端に排他的で破壊的な考え方を有する存在があります。
これを多様性と認めるかどうか。
そこにその人の判断基準があり、向かう先があります。

多様性の意味が人に向いていれば、人の生存権までも脅かす存在は認められませんし、人に向いていなければ、主義主張の違いとして認めることができます。

へそ思考から見つめると、生物的な多様性は「仕組み」と「出来事」の関係性から生まれ、「こころ」の領域とは無関係に、生存の原則が保たれています。

ことづくり生活の「菜園の哲学」的に見つめると、コンパニオンプランツやマメ科の根っこにできる根粒菌などにも共生の姿があります。

もっとも、これらは長い時間の流れにおける生存や進化という変化を伴う過程において、「出来事」と「仕組み」の間にある構造や効果などの「機能」で成立しているに過ぎず、「こころ」という主観によって押したり引いたり、すり合わせたりして新しい意味や価値を生み出しているわけではありません。
場合によっては構造や効果や効率などを脇に置いておく必要だってあるのが「こころ」の多様性です。

福祉施設で起きた痛ましい事件で、支援される者の生存権までも否定し、殺人に及んだ犯人を多様性と認めるのかと言われると、「こころ」から見つめれば、人間性や社会性の観点においても問答無用で言語道断となるでしょう。

このようにへそ思考で見つめると、対象によって多様性への答えが変わり、多様な意味や価値を含んでいることがわかります。

では、ことづくり生活における多様性はなんでしょう。

そこには「ともに」が必須です。
共に生きるー「共生」の態度。

これは人間に限定されませんが、ことづくり的にはあなたの「こころ」は絶対に外せない前提です。

それぞれが目指す「かたち」に未来志向の姿勢で向き合う。そして引き出しあい、支え合える態度。そこに向かおうとする覚悟などなど。

「こころ」から見つめる多様性。
ことづくり生活では、ずっと大切にしたい想いのひとつです。

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たまねぎの収穫

タマネギが大きく成長して、収穫期を迎えました。
収穫期かどうかの判断は、太い茎が倒れたかどうかと言われています。
もう十分に茎の根元が大きくなって、「へにゃっ」となった状態です。

今回は赤いタマネギと晩生のたまねぎを育てました。晩生の方が収穫時期が遅いのですが、早生なら9月頃までしか保存できないところ、12月頃まで保存できると聞いたので選択しました。
5月下旬に入って赤い方が収穫期を迎えましたから、おそらく数週間の後まで待たずに晩生のタマネギも収穫できると思います。

タマネギは万能野菜です。どんな料理にもちょっと入れると甘みが増したり引き締まったりと味に変化が出るので大好きです。

みなさんなら、どんなタマネギの使い方をしますか?
いろいろ教えて頂けるとうれしいです。

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