モノに縛られない生き方

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芸術家はモノに(或いは「から」)、造形させられているのでしょうか?
私たちはモノに(或いは「から」)、示唆させられているのでしょうか?

江戸時代の円空という仏師は「木の中に仏がいるのを掘り出している」と述べたとか。同じような感覚的事象を述べる作家は結構います。
これを額面通り解釈すると、木の中に仏がいて、作家がそれを掘り出している、いわば何者かに作らされていることになりますが、これはメタファー(暗喩)と理解しないと話がややこしくなります。

有名どころでは「時は金なり」。時間がお金だという事実を示す事柄ではないですよね。これを理解するには両者の関係性を紐解く必要があります。
(暗喩の話はいずれまた。)

ある著名な芸術分野の研究者の講演で質問したことがあります。
「モノとコトをどう捉えていますか?」ー

答えは「考えていない」でした。分けて考える必要はないとまで言われました。

モノの理解には物理(即物)的対象の要素が、コトの理解には認知(情動)的作用の要素が大きく関わっています。
もし、分けて考えるという前提なしにふたつの関係性を分析的に見つめることができるでしょうか。きっと曖昧な要素を理解できずに困難を極めるでしょう。

全体と部分、一般的判断と個人的判断も分けることが難しくなり、その境は個人の主観で大きく異なる認識や解釈などを説明しにくくします。

分けない理由のひとつには、モノ(対象)には特定の意味があり、鑑賞者には争うことのできない絶対性が押し付けられることを意味するのでしょうか。

懇親会の際には現象学的な視点を例える際に用いられる赤いリンゴの話をしますと、ご本人は考えたことがないのか、このような議論は不毛だとお感じになったのか、議論を避けるように無言で離れて行きました。

多くの著作を出版している批評家であっても、結局は自分の主義主張(イデオロギー)を根本から見つめているわけではなく、主義主張を理解させる「手段」の範囲内で芸術批評があって、鑑賞者の目線にまで降りているわけではないのかと、妙に寂しくなったことを思い出します。

日常生活で、ごく普通に生きる。
そこに曖昧さは必要です。

特に芸術領域では。
確たる答えがないからこその楽しさがあるからです。新しい芸術の発現も、曖昧さの中から生まれてくるのではないでしょうか。

それを見つめるためには、どういう曖昧さがあるかを自覚しておくことも大切でしょう。

どうして楽しいのか、ザワザワするのか、がっかりするのかなど、自分なりの理由があって、その根拠を探せないと、なぜそういう解釈をしたのかが分からなくなります。

大事なことは批評家が述べる論ではなく、わたしたち自身がどのように解釈するか、だと思うのです。
(「事実と根拠と解釈と」もご覧ください)

何よりも、色や形や素材などを組み合わせ、それら組み合わさったモノを解釈するのは人の「こころ」が行うコトですからね。

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