1人乗り電気自動車

こと館に1人乗り電気自動車がやって来ました!

トヨタが販売している「coms」と言います。ミニカーの分類に入るので、原付自転車にタイヤが4つついたようなかたちです。

こと館では、再生可能エネルギーに関心を向けています。蓄電池もいずれ導入を予定していますが、まずは2ヶ所の施設間移動とちょっとした買い物などに利用するために導入しました。

最高時速は60km、航続距離は65km(いずれもカタログ値)ですから、ちょっとした地域コミューターですね。地域によっては自治体が導入したり、コンビニが導入したりしているようです。カーシェアリングなんかにも利用されているそうですよ。

ピンクのcomsは他にも乗っている人をみかけたことがありますが、高松ではおそらく希少価値のある車体です。これから見かけることが多くなるかもしれませんが、もったり走っていても温かく見守って頂ければ嬉しいです。

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対話で平和を導くために

「まずは話し合おう」
よく聞く言葉です。

話し合って価値観の「共通理解」にたどり着けるなら、とても素晴らしいことです。
話し合って解決するなら諍(いさか)いなどは起こるはずもないですから、諍いが起こる場面の「話し合い」ではどこかに問題があるはずです。

話し合いという行為としての出来事や仕組みに特段の思い入れがあり、「話し合えば解決する」という変な盲信があるのかも知れません。

世の中には残念ながら話し合っても解決しないこともあるんですね。
特に、二項対立に持ち込んだ論争は帰結点はないと考えた方が良さそうです。

この代表選手は宗教戦争です。
そもそもの「前提」が違うのですから当然です。でも、歴史的には戦争せずに平和な時代もいっぱいありました。

それは「解釈」が共有されていたから、ではないでしょうか。

どこを見つめているか。
こころか、仕組みか、出来事か。
そして、それを「こころ」がどのように結びつけるか。
信じることが違っても、その本質を見つめられればいちいち諍いを起こす必要がなくなります。

本質を見つめずに、端々の事実(出来事)や根拠(仕組み)などを淡々と語られても、結局のところはこころで納得できなければ腑に落ちません。

また、議論の結末に妥協や打算を「前提」にするなら、これは勝ち負けを当事者に意識させてしまう恐れもあります。
その議論で勝者となった側の価値観を一方的に押し付けることになるからです。

でも、共通項探しは違います。
これは認識内容の共有から始まります。本質と向き合い、お互いが納得できる範囲を探して、ここは共通だから同じように理解できるよね、という位置を探す行為ですから。

価値観が異なる、という認識を共有することから始めるか、価値観までも同一を求めるのか。

これが対話での肝になりそうですね。

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「園」のもつ魅力

園っていう言葉って、どういうかたちがあるのでしょうか。
まずは、いつものようにさらっとネット検索してみました。

「その」:古代の菜園地。宅地に付属した畠地で野菜のほかに桑,漆を植えることが定められていたが,免租地であった。令制下,宮中では園池司 (そのいけのつかさ) をおいた。中世荘園では畔 (くろ) とも称せられた。

「えん」:
1. かきねをして果樹を植えた畑。また、菜・花・薬草などを植えたひとくぎりの地。 「園芸・田園・荘園(しょうえん)・菜園・薬園・農園・梅園」

2. 《名・造》作った庭。遊楽用の庭。人々が集まって楽しむ場所。また、児童・生徒などを集めて教育するための施設、学校。「苑」に通ずる。 「園の経営」

苑:
1. かこいをして鳥獣を飼うところ。また、草木を植えた畑・庭。庭園。 「御苑・禁苑・神苑・遊苑・薬苑・鹿野苑(ろくやおん)」
2. 文筆家・芸能家の世界。
「文苑・芸苑」

なるほど〜です。
囲いをして人が集まる場所をつくったりや集めて教育したりしる場所などの意味は、自産自消の農業やことづくりから生活をみつめるための研修などを目的にする、ことづくりの3つのスタイルに近いかたちに思えてきました。
<参考資料>
園について
苑について

その中で気になった関連用語を英語に直してみました。

庭園 garden
公園 park
菜園 Vegetable garden
農園 Plantation
遊園 Amusement
田園 Countryside
園庭 Playground
園舎 Garden building

動物園や遊園地、幼稚園など、園というと小さな子供達が集ったり遊んだり学んだりする場所という印象がありましたが、それだけではなかったんですね。

もう少し、ことづくりと園との共通項を探ってみたいなと感じました。そして、園という言葉がもつかたちを活かせる方法を見つめようと思います。

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苔の養生中

隠れ家のエントランスをかたちづくる小さな庭。ここは造成時に苔が張ってありました。
その経過の中で苔が茂り過ぎてモコモコになってしまいましたので、春先に思い切って「散髪」しました。

散髪というより断髪でしょうか。

綺麗さっぱり無くなって、さて大丈夫か?と思っていたのですが、ようやく生えてきました。

今はこんな感じです。

土だけになってからは、運送屋さんなどで心無い人は足跡を残していかれます。ずしっと靴跡が付いているともの凄くガッカリしますが、そこでメゲている訳にもいかず、毎日数回の水やりをしています。

ご訪問の皆さまも、温かく見守って頂ければ嬉しいです。

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絶対は身にまとえるか

今回は人は何を身にまとうか、でのお話しから少し視点を変えて見つめてみましょう。
人は何を身にまとうのか1
人は何を身にまとうのか2

最近は少なくなりましたが、生活をしていると以下のような呪文のような言葉が飛び交う場面を見かけます。

これは絶対安心です。
これなら絶対間違いありません。

この言葉に安心感を得る人は多いのではないでしょうか。
しかしながら、それが一番胡散臭いぞと思う人たちも一定数います。そのことばに込められたこころや出来事、仕組みに関する傾向を知っているからこその感覚ではないでしょうか。

逆に催眠商法など「本当はこれがいいけど、選択はあなたが。選択までの時間はわずか」というように時間を極端に制限させてじっくり考える余裕を与えないこともありますが、その話はここでは触れません。

さて、相手を騙すつもりがなくても「〇〇であるべきだ」という論陣を張る人は、図らずも絶対的な正しさがどこかにあって、自分はそれを知っている、というような傾向があるように感じます。

では、そこにある「絶対」を、人は身にまとえるのでしょうか。
結論から言えば、まとった気になることは可能です。

「絶対」というのは意味や価値の固定につながりますから、多様性を大事にする姿勢からは真逆な位置づけになります。
これは、ことづくりの考え方には合わないことが判っていただけるかと思います。何しろ、「も」の精神はここに宿っていますから。敢えて言うなら、『「絶対」は「も」にこそある』と言えるのかも知れないですが。

人は絶対の「なにか」を求める傾向があるのでしょうか。

恐らくここにあるのは、いわゆる普遍的価値なのでしょう。揺らぎない絶対的正義など現在の世界や社会情勢を見せられるとあり得ないのだろうねと実感させられますが、あって欲しいという願いも非常によくわかります。
特に「共生」ということには引き下がれない大切なことが詰まっています。

でも、誰のとっての、何のための絶対なんだろうか、という問題も残ります。

普遍的価値があるとすれば、それは軌道修正や方向転換などに上手に利用できるのが望ましいと思います。

手段も目的も、「解釈」によって意味や価値が異なるのは以前にもお話ししたことがありました。

気をつける「べき」人が落ち込みやすいこと。
それは超越的な世界へ安心を求める行為へ。さらには主観を超えた存在があるという前提が必要であることです。

何故なら、そこにある普遍的価値を受け止められない者との対立軸が生まれてしまうからです。

それぞれがそれぞれの意味や価値を大事にしつつ必要最小限までそぎ落とした新たな「なにか」を探り合い、お互いに認め合える意味や価値を受け止めあうこと(共通了解)が大事ではないでしょうか。

そして、それは柔軟に変更可能な状態を維持すること。
実はこれがとても大変なのですね。

なぜなら人は常に安定を求めているからです。敢えて「ゆらぎ」に身を置きたい人はあまり見かけません。
こころの迷いに耐えられなくなることがあるからです。
そういう人は恐らく超越的な存在を前提とする宗教家や、カリスマ性をもつ優秀な経営者ぐらいかも知れないですね。

かく言う私も迷いの真っ只中にいます。
ただし、それもまた楽しんでいく姿勢を大事にしているつもりです。

楽しみ方のひとつは概念くずし。
あり得ないコトを想像して、それが現実に起こった時を想定します。
あくまでも想像だという自覚はありますから、自在に効果や反応、必要な条件などの「機能(出来事と仕組みのあいだ)」について論理的思考で考えることができます。

こういった普段の生活の中で、文部科学省の掲げる学習指導要領にある、主体的、対話的な深い学びにおいて、見方や考え方を前面に出した経験主義的なことを補完しながら、生活に役立つ随意性や自覚性などの特性が育つのでしょうか。

なんにしても「絶対」に縛られることなく未来志向で、ことづくり生活での志向的恩恵を探る姿勢を大切にしたいですね。

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かたちを「解釈」する

当初、「誰でもできる理論武装」という刺激的なテーマにしていましたが、やっぱりことづくりには似合わないですね。

理論武装と言うと、なにやらいかめしい甲冑でもまとった印象を受けるでしょう。でも、同じ論理力を用いても、相手を理解すると言えば、急に柔らかくて優しくなります。

理論武装は相手をやっつけるため。
理解するは相手を受け止めるため。
こう感じますよね。

さて、理解する。と一言で表しても、誰の何をどのように理解するのかなど、余りに広い範囲なのでどこから取り掛かったら良いかわからないのではないでしょうか。

世間話なら、内容正確に理解しなくても雑談の中で訂正したり付け加えたりできますし、そもそもズレてたところでさほど問題はありません。その場が楽しければ良いのですから。
ところが議論になると精度の高い理解力を求められます。相手が言いたいこととこちらが伝えたいことが上手く噛み合わないと議論にならないからです。そのためには正確に議論の内容を把握することが必要になってきます。
そんな時に専門知識が必要な話題と内容に焦点が向けられると、専門的なことを知らない人はチンプンカンプンです。

ですから、どんな時にも使える(かも知れない、いやきっと、使える。と思う)理解に向けた方法としての提案をひとつさせて頂きましょう。

事実と根拠と解釈

相手の話を、単純にこの3つに分けて聞き取るのです。

根っこはへそ思考です。

事実は「出来事」
根拠は「仕組み」
解釈は「こころ」
に対応しています。
これは以前の記事でも書いたので、覚えていらっしゃるかも知れませんね。

だからと言って、いきなり目の前の人が話していることはどこだろう、と理解するのは大変です。

ですからSNSやネットの投稿で言いたいことを書いている人は、この3つのどこが中心になっているんだろう、とのんびりと調べてみると良いですよ。

すると、ああ、この人は自分の解釈に都合がいい仕組みを使っているなとか、出来事と仕組みの往復をしているように見えて実は自分の独自解釈に気づいてないなとか、なんとなく見えてきます。

日常の多くの対話の中で一番大事なことは事実や根拠ではなく、理解に向けた「解釈」ではないかと、私は思うのです。

解釈に注目すれば、違う意見になっても相手を否定せずにすり合わせることも可能になると考えています。だって、事実や根拠が同じでも、解釈が変われば全く違う意味や価値が現れるのですから。

それに、事実と根拠だけだと客観性があるという前提が働きますから、同じ客観的価値を持っている人同士なら問題は起きませんが、これが違うと勝つか負けるかみたいな二項対立が生まれてしまいます。

こころに問う。
こころで見つめる。
こころで向き合う。
。。。

やはり、どんな「かたち」であっても、こころを一番大切にしたいですね。

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考え方を提供する考え方

お店で購入できるのは商品です。
旅行すれば思い出が生まれます。
食事に行ったり習い事をしたり。
仮想空間をサーフィンしたり。

世の中にはモノやコトを用いた、いろんなサービスが存在します。

サービスと呼ばれる業態をへそ思考で見つめてみましょう。すると、顧客の満足を誘う「仕組み」を「出来事」で演出し、対象とする人の「こころ」に響かせていると理解できます。
これは対象がモノがでもコトでも同じです。

最近はコンサルタントやコーディネート、ファシリテートなどと呼ばれる仕事が増えているようです。
誰かに相談したい、調整してほしい、導いてほしいなどの想いは何かに不安や悩みを感じているからでしょうか。それとも知識欲でしょうか。
実践に向けたヒントが欲しい人もいれば、これまでに縁がなくてつながりがない方向に繋いでくれるきっかけを求めている人もいます。

解決しなくても、話を聞いてもらうだけで楽になることもあります。この場合は、カウンセリングも当てはまります。

これらの共通項は何でしょう。

そのひとつに「考える」ということがあります。
フランスの哲学者パスカルは、遺稿集「パンセ」の中で「人は考える葦である」と述べた言葉が残っているというのは有名なお話ですね。

人の行為に込められた本質から見つめると,「考える」という行為からは逃れられません。

しかしながら、考え方を提供する考え方は、あまり人々に受け入れられにくいようです。
それは知識や経験を経済論理に置き換えることに抵抗を感じる人の割合にもよるのでしょう。

「考え方」と言ってしまうと、そこには正確さや明証さは要求されないことが多いのがその一因かも知れないですね。モノとしての見えるかたちもありませんし。

本当かどうかは知らないので噂レベルですが、都会では眉にいっぱい唾を塗りたくったかのような助言者(コンサルタント)という商売があると聞きました。弁さえたてば、飯が食えるということでしょうか。確かに、これでは偏見も生まれそうですね。

ことづくりは基本的に考え方を提供する考え方です。そこで得た未来志向な出来事をつくる「ことづくり生活」の場も、併せて提供していますが。

やはり、どんな「かたち」がふさわしいかを何度も試行錯誤できる「出来事と仕組み」の組み合わせ実践は大切です。

生活を豊かにすると触れ込みの宣伝を見かけることがありますが、誰に軸足があるのか、結局金儲けの餌か?と幻滅する内容もあります。

一緒くたにされるのも困りますが、そう考えてしまう思考の流れもわからないではありません。

ですから、そう言った全てのコトまでも俯瞰する姿勢が大事だと思うのです。

これからの時代には多様性を含む考え方が大切になってきます。そう言った状況で「考え方」を売るためには、その考え方への賛同者が増えることも大事ですけど、その考え方自体も批判的に見ることのできる方向も残しておくことが大切なのかも知れませんね。

こうやってツラツラと書いていると、考え方ってとても大切ですし、私自身も改めて「ことづくり」を見つめ、俯瞰するきっかけにしてみようと思いました。

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小麦の収穫

昨年晩秋に蒔いたさぬきの夢2009が収穫時期を迎えました。土曜にはお手伝いもあって随分はかどりました。

今年は手動の脱穀機を準備して、少しだけ省力化を目指しました。

束にして布団干しにかけて数日乾かしてみたのと、そのまま脱穀したのを試しましたが、すぐでも問題なくできました。

脱穀機の使い方が少々面倒です。強く当てるとバリバリっと穂先がとれて実が弾けないので、手作業が増えました。でも2人でやってみると、こぐ人当てる人それぞれが力加減を考えながらできたので、結構効率よく進みました。

そして日曜は晴れ渡った空の下で昔ながらの天日干し。のどかな時間が過ぎて行きます。

干すだけでなくて紫外線も当たるので熟成する、のかな。乾燥機よりも味が濃厚になる気がしますが、感覚的なコトですから人によって印象は違うかも知れないです。

小麦を植えた場所は大体50坪程度です。ここで菜園活動の仲間が一年に使う量以上の収穫があります。売るには少ないですが、希望する方にはお分けします。

粒のままで保存していますから痛みにも強いですよ。今年も無農薬で大事に育てた小麦を楽しめそうです。みなさんも一緒に畑仕事と収穫とそして料理を楽しみませんか。

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命を育み命を奪う活動

「菜園の哲学」では、時に厳しい現実を突きつけられます。
それは命を育む菜園で、命を奪うことも同時に行われているという事実です。

私たち菜園スタッフは、食べるために野菜を育てています。美味しくて安全な食材を、自分たちとそれを求めて下さる方に提供するためです。

その野菜も命ある生き物です。
私たちは命を奪うことで生きる動物なのです。

もっとも、捉え方によっては植物は動物ではないとか、サプリメントだけを摂取するとか、極端な行動思想に飲み込まれます。
それ自体は悪いことではありませんし、他者に強要したり批判したりすることでもありません。その思想自体が命を弄んでいる訳ではありませんから。

命とは、という問いもへそ思考で見つめることができますが、ここでは単純に「新陳代謝を伴って成長し、子孫を残せる」状態をつくり出す存在を生命としましょう。

菜園では他にも多くの命を奪います。
へそ思考的に言えば「仕組み」の中で起こる「出来事」が、ここには多く詰まっています。

野菜同士に競わせて早く育てるために、最初は1cm間隔で種を蒔き、その後大きく成長させるための「間引き」を行います。
この時遅れたり弱かったりする苗は間引かれます。菜園で生き残ることは無理です。

野菜を育てるために、障害となる植物も、取り除きます。
畝の中や外に生える雑草たちです。雑草と言っても植物の名前はちゃんとあります。春ならスズメのエンドウやレンゲ、ツクシやタンポポなども菜園では雑草です。
風通しが悪いと野菜の成長が遅れたり、病気になったりするので、この作業は大切です。

野菜につく害虫たちの命も奪います。害虫だって名前があります。
菜園で最も困るのは、小さなアブラムシもそうですが、ネキリムシ(蛾の幼虫)が一番困ります。キャベツではアオムシ(モンシロチョウの幼虫)にも悩まされます。

うちはイノシシはやって来ませんが、獣害というのもあります。
可愛いけど一番困るのはモグラ。穴を開けて地面に空洞をいくつもつくります。畑に住むミミズやオケラなどを捕食する訳ですから畑が肥えているという捉え方もできますし、畑を耕す効果もありますが、空洞は野菜たちの根が栄養を吸収する邪魔をします。うちは高台ですから水が抜けて法面が崩壊する危険もはらんできます。

命を育むという行為は、崇高で輝いて見えることもありますが、もうひとつ周りから俯瞰すると、どこに立っているかが見つめられます。

植物でさえ、多くの命を飲み込みます。植物が栄養とする食材は水と太陽による光合成だけではありません。根から無機質の栄養素を取り込みます。それらは確かに鉱石などの組成物もありますが、数多の動植物が命を終えて土に還り無機物になって植物に取り込まれることもまた起こっていることです。

これらをどのように解釈して「こころ」で受け止めるか。
それによって考え方が変わってくるのです。

6月4日は語呂合わせで「虫の日」なんだそうです。
たまには、美味しく頂いている野菜たちの陰で奪った命に対して、お礼を込めて手を合わせます。まぁ、それだけなんですけど、自然の中で生きているという感謝を忘れないためにも、これかも続けたいなぁと思っています。

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楽ちんプランター

漠然と、ちょっとした日常にちょっとだけ変化をつくろうと思うと、何をどうしたら良いか悩むことが多いのではないでしょうか。

食卓の彩りもそう。

特に変わったことをしなくても、考え方を少し変えるだけで楽しみが広がります。

そのためには、時間をかけたいことと、時間をかけないで済むことのバランスが必要です。このところ不便と益という組み合わせの話がよく登場しましたが、今回ご紹介するプランターも時間をかけても、時間をかけないでも楽しめますので、ぜひご一考ください。

・大きなプランターでガサッと育てる

サニーレタスの種は一袋購入すると、普通の家庭では使いきれないほどの量があります。

ですから溝を作って綺麗に「すじまき」せずに、バラバラっと「ばらまき」にします。あとは毎日水やりと週に一回ほどの液肥(100円ショップにもありますよ)を与えるだけです。これからの季節は直射日光を避けて、午前中だけ日が当たるなどの場所が良いでしょう。

写真は3月下旬に蒔いたサニーレタスです。

昨日は間引き菜をサラダに使いました。

・ポットで育てる

こちらはシードと呼ばれる、化成肥料と種数個をパチンコ玉よりも一回り小さなかたちにまとめた種のかたまりを使います。

100円ショップの植木鉢に野菜用培養土を入れて、あとはプランターと同じように育てます。

こちらは大きくなってくるとダイニングテーブルに載せて彩りを楽しみながら必要な量を食べる、ということに使えます。

これからの季節は露地栽培だと虫に食べられることが多いので、省力化には室内が良いでしょう。時間をかけることができるならネットを被せる方法もあります。

どちらもお店で買えば簡単に手に入る野菜ですが、その野菜を育てるコト、つまりそこに込めることのできる「こころ」や過程を楽しみながら、単に食べるだけでなく、いろんなコトを起こすきっかけづくりとして、ぜひプランター栽培にチャレンジしてみてください。お手伝いしますよ。

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