バイアス(偏り)のある心

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常に公明正大な心を保ち続けることができますか?と問われると、私は無理だなぁと答えるでしょうか。
やはり感情に影響を受けることが多いからです。

それも含めて、人の心の動きには、バイアス(偏り)があるそうです。

いろんな状況で起きる私たちの「そうであったらいいなぁ」という願いが考え方に影響を与えているそうです。

学術的には行動意思決定論などに「認知バイアス」という考え方があって、その中でも確証バイアスというのが有名です。
確証バイアスとは、自分が正しいと思う方向の事実や根拠が出てくると「そうそう、そうだよね」と、そこに正しさの根拠があると盲信する心の動きです。

実はバイアス自体は問題ではありません。むしろあっても良いと思うのです。
問題は「偏りがない」状態を無自覚に受け入れてしまうことです。

それは多くの人が「客観性」という、人の意思が介在できない状態を偏りがなく望ましいかたちだと考えているからではないでしょうか。

しかしながら人にはそれぞれの意思があり、価値観があります。
こだわりがあり、ムキになればなるほどバイアスにとらわれる傾向にあります。

「バイアスとの付き合い方」をへそ思考で例示すると、たとえば

仕組み〜偏向に囚われる心の構造
出来事〜あらゆる知識や経験など
こころ〜認知に至る心情など

でしょうか。

この関係性を見つめることで、バイアスに囚われない方法を探ってみましょう。

これも一例ですが、
こころと仕組みからは
「囚われるという前提を自覚する」
こころと出来事からは
「多様な知識や経験を入手する」
仕組みと出来事からは
「態度維持のための高効率な構造」
が見えてきます。

人には「こころ」がありますからバイアスには囚われるのが前提です。
そう考えると、囚われないようにもがくよりも少しは気が楽になりませんか?

ことづくりから見つめると、仕組みと出来事の間で変化するかたちはバイアスとは言いません。変容です。

こだわりがない人は、バイアスに囚われにくいでしょう。ただし、感情に現れにくいという点も内包しますし、支持に服従しやすい態度も示しますので、ちょっと気になる態度かもしれないですね。

ことづくりの施設においては、基本的になんでもオッケーですが、「ともに」というこだわりだけは外せません。
周囲の迷惑も顧みずにわがままし放題まで許されることはありませんから。

みなさんは、自分にはどんなバイアスがあると自覚していますか?

いざという時にそのバイアスに囚われないために、へそ思考で関係性を俯瞰してみましょう。

特に囚われそうな領域(よく知っていると思う領域など)について、違う視点や価値観などを含む、より多くの知識や経験を得られるように行動するなどが大切になってきそうですね。

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