不便益が見つめる先

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不便と益を重ねた不便益という造語は、普段意識していない視点を提供してくれます。
当然だと思っている視点に疑問符をつけてくれるのです。

この不便益を定義する際に仕組みや出来事だけを見つめてしまうと、こころを取りこぼしてしまう恐れがあります。

例えば、目の不自由な方に「見えないのは不便ですね」と言おうものなら「どうして不便だと思いますか」と逆に問いかけられたというお話があります。

「そのおかげで、私は肌への刺激や匂い、音などにとても敏感に情報と触れあっています。きっとあなたよりも、ずっとそれらの感覚に注意を払っていると思いますよ」

目が見えているからといって目の前にあるモノやコトを、正確に緻密に分析的に見ているとは限りません。

こういった問いかけは美術領域の「対話による鑑賞」を推進しているACOPでは、よくある質疑として取り上げられているようです。

不便益から本事例を見つめた場合、「目が見えないという不便に対し、別の感覚器官が研ぎ澄まされるから益だ」となるのでしょうか。
ここには議論の余地がありそうですが、別の感覚器官が研ぎ澄まされることに「よって」、『別の何かに応用できる力を身につけた』のであれば、それは志向的恩恵ですから益になると考えても良いように感じます。

代替の機能が磨かれたとしても、主たる目的に使用する機能(対象機能)に対する補完的な使用が益となるなら、「電車に乗り遅れたからタクシーで移動した」までが不便益になってしまいます。
これは「出来事」から、同類の「機能」を備えた「出来事」へ乗り換えただけです。空間の移動を素早く行う「仕組み」が複数あって、それを選択したに過ぎません。

では、牛車にすればどうでしょう。
不便のつくりかたでは、「アナログにせよ」というのがありました。
比較対象より時間がかかる移動方法を採用すれば不便とは言えます。

ですが牛車に乗っても自転車でも、その選択で生じた多くの時間の使い方など(移動するプロセスにおける他の感覚や知覚や思索などを刺激する「出来事」)を自覚的に主体的に考えられないと、単に時間の浪費になります。
ところがここで判断を難しくしているのは、判断者の日常生活に踏み込んだ先にある比較要件、つまりそこで生じる作用の受け止めです。

普段分刻みで行動している人にとって、半ば強制的に時間を拘束し、何もやらせないのは不便であり、害です。ところが精神的な余裕をつくるために敢えて時間を束縛することでなにもさせない時間とさせる余暇確保も起こり得ます。

これは、同じ事象であっても視点や立ち位置によって、判定者がどのようにでも結論づけられることを意味します。

先に紹介した素数ものさしも、志向的な『遊びゴコロ』から益とする判断しています。
もしそうでなければ、例えば22mmを計測し、数カ所に同じ長さで線を引くなどの用途には、害にしかなりません。

別の事例で「かすれるナビ」というのがありますが、ここでは「無駄(過多な情報を取り除く:「正確さの排除」)をなくすという無駄(経験的記憶に頼る:「曖昧さの容認」)をつくりだす」と表記できる相反するような状態も生まれます。双方の「無駄」に対する視点や価値観が違うと言えます。

益の中には「オレ様感がある」という項目がありますが、まさにこれが「こころ」に起因する独善的な主観判断です。

つまり不便益は、恋愛感情にも似た「仕組み」を要求します。
必ずしもイケメンがモテるわけでも、嫌なところがあっても嫌いになるわけでもなく、各人の嗜好という「こころの仕組み」に左右されるのだと理解できます。
これを「しかけ」と呼ぶことも出来ます。そのお話はいずれまた。

へそ思考で見つめると、出来事などを「不便益」で分類する必要も必然もなくなりそうです。
あると信じても、ないと信じても、そこには二項対立が発生します。それは何よりも「こころ」による解釈が根っこにあるからです。

「あるようでないし、ないようである」とは、なんとも面倒臭い構図ですね。

だからこそ不便益を見つめることはとても本質を深く探れますし、新たな視点の提供という、アーティスティックな、新鮮な驚きに満ちた活動になるのではないかと、私は考えています。

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