かたちの「ふへん」な意味

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今回は「ふへん」として不変と普遍という二つの言葉を取り上げます。

ちょっと調べてみました。
ごく簡単に言うと、普遍は性質が変わらないことであり、不変は形相や事象が変化しないことだそうです。

ことづくりの視点で見つめると、性質も事象も、「仕組み」と「出来事」の間で構成されます。
例えば鉄の塊は、ドロドロに溶けても化学式に示される鉄という意味が消えることはありません。
鉄橋は、鉄という素材を用いますが壊れたり錆びたりします。ここでは鉄という素材は普遍ですが、かたちや状態は不変ではありません。

物事を突き詰めていくと、人は普遍というか真理というか、絶対的(超越的)な意味をもつ「何か」を求める傾向があるようですね。運命は遺伝子に刻まれているとか、神の存在だとか。

『〇〇とは〇〇である。』

上記のように、シンプルな結論に帰着すると、それ以上疑問を抱かずに済むからでしょうか。

人は信じたい事柄が提示されると信じ込んでしまうタイプと、私のように疑ってみるタイプがいます。
自分が共感を感じる著名な研究者や有名人の発言には特にそうだと思い込みたいとする心情が働くようです。これは偏向バイアスと呼ばれます。

今回のタイトル「かたちのふへんな意味」も、今回のルール通りの文言です。それに対してみなさんはどうお感じになったでしょうか。

おそらく「そうかなぁ〜」と、なんとなく感じながら、この話の矛盾点が探せないかと感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さて、もう少し自分や周囲を見つめてみましょう。

大学で図画工作指導法の講義を担当した時のことです。ある学生が言いました。
「言語活動の充実が言われてますけど、図工ぐらい言語活動から切り離しても良いんじゃないでしょうか」

私自身としては「図工ぐらい」「言語活動は必要ない」という意見には全く同意できません。自分の内的表現のみで満足する教科であれば、義務教育における実施根拠が怪しくなるからです。
でも、その学生が抱く素朴な疑問には共感できます。

ですから

「それが正しいと思うなら、その理由をとことん探ってみて欲しい。ひょっとすると君の意見が正しいと多くの人が納得できる説明をできるかもしれないね」

と話しました。

今、美術教育の世界で言われていることが絶対、と思わないで、本当にそうなのかと常に疑問をもつことを伝えたつもりでしたが、さて学生がそこを理解できたかどうかは講義終了後にお会いする機会もなかったのでわかりません。

でも探っていくうちに、きっと自分なりの答えを修正したり深化させたりできると信じています。

別のたとえをしてみましょう。

カラスが巣づくりにクリーニングで用いられるハンガーを集めて使っていた、というニュースを随分昔に見ました。

人間がもつハンガーの意味と、カラスが見つけた意味が同じである必要はありません。
硬くで丈夫だけど、力をかけると自由に曲がり、自分が意図する方向へ変形させられる、という「仕組み」を利用し、「出来事」へと活用しています。

これは木の枝などではできないことです。カラスの「こころ(認知行為)」が都合に合わせた解釈を行なったと言えそうですね。

つまり、ハンガーのもつ意味とは、ハンガー自身がもつのではなく、それを認識した側の「こころ」に委ねられています。
つまり、かたちに込める意味は「見つめる側が決める」のです。

芸術の世界に目を向けてみましょう。

造形表現のカタチとして「ものづくり」が行われますが、ここに今回の二つを当てはめると、そこでつくられるモノ自体の「普遍」的な形相(色や形材質など)は変わりませんが、解釈から導かれる意味や価値は「不変」ではない、となります。

誰かが何か(先行研究など)の基準を土台にして考案した理屈はありますし、それにはそれで大事な学術的価値が込められていることでしょう。
しかし、人がものに関わり、自分なりの意味を見つめる。そして個人の心の内に生じた未来志向の姿勢の中で、芸術作品は初めて効力を発揮するのではないでしょうか。

今、目の前のあなたに関わる「モノ」のかたちに意味をもたせて価値づけるのは、製作者でも評論家でもありません。
他でもない、あなた自身なのです。

普段から、あまり他者の意味や価値に引っ張られ過ぎないように、自分の見方感じ方考え方などを大切にするきっかけとして、ことづくりの視点(へそ思考)をご活用頂ければ嬉しいです。

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