「まずは話し合おう」
よく聞く言葉です。
話し合って価値観の「共通理解」にたどり着けるなら、とても素晴らしいことです。
話し合って解決するなら諍(いさか)いなどは起こるはずもないですから、諍いが起こる場面の「話し合い」ではどこかに問題があるはずです。
話し合いという行為としての出来事や仕組みに特段の思い入れがあり、「話し合えば解決する」という変な盲信があるのかも知れません。
世の中には残念ながら話し合っても解決しないこともあるんですね。
特に、二項対立に持ち込んだ論争は帰結点はないと考えた方が良さそうです。
この代表選手は宗教戦争です。
そもそもの「前提」が違うのですから当然です。でも、歴史的には戦争せずに平和な時代もいっぱいありました。
それは「解釈」が共有されていたから、ではないでしょうか。
どこを見つめているか。
こころか、仕組みか、出来事か。
そして、それを「こころ」がどのように結びつけるか。
信じることが違っても、その本質を見つめられればいちいち諍いを起こす必要がなくなります。
本質を見つめずに、端々の事実(出来事)や根拠(仕組み)などを淡々と語られても、結局のところはこころで納得できなければ腑に落ちません。
また、議論の結末に妥協や打算を「前提」にするなら、これは勝ち負けを当事者に意識させてしまう恐れもあります。
その議論で勝者となった側の価値観を一方的に押し付けることになるからです。
でも、共通項探しは違います。
これは認識内容の共有から始まります。本質と向き合い、お互いが納得できる範囲を探して、ここは共通だから同じように理解できるよね、という位置を探す行為ですから。
価値観が異なる、という認識を共有することから始めるか、価値観までも同一を求めるのか。
これが対話での肝になりそうですね。