定期的に収穫できる野菜のひとつとしてお手軽なのがスプラウト栽培です。
今回はポットを二つ購入して、どのくらい収穫できるかを調べています。
最初は暗くしておく必要があるそうです。ダンボール箱を被せて暗室をつくっておいたら、約一週間で芽が伸びてきました。
茎が5cmぐらいになったら直射日光を避けて明るい位置に移すと良いそうです。
こういった野菜は食事を彩るちょっとしたアイテムですから、大量にはいらないんですけど、あると便利ですね。
定期的に収穫できる野菜のひとつとしてお手軽なのがスプラウト栽培です。
今回はポットを二つ購入して、どのくらい収穫できるかを調べています。
最初は暗くしておく必要があるそうです。ダンボール箱を被せて暗室をつくっておいたら、約一週間で芽が伸びてきました。
茎が5cmぐらいになったら直射日光を避けて明るい位置に移すと良いそうです。
こういった野菜は食事を彩るちょっとしたアイテムですから、大量にはいらないんですけど、あると便利ですね。
(HP掲載内容の再掲です)
今回は、金子みすゞの詩と向き合ってみましょう。
金子みすゞの詩の中に、有名な「わたしと小鳥と鈴と」があります。
1903年生まれの女性で、本名を金子テルと言います。
26歳という若さで亡くなるまでに、500編もの詩を綴ったと言われています。
この詩は、かなり多くの方が聞いたことがある、と答えます。
まず、この小鳥とすずと私、という詩をご説明します。
非常に短い詩です。
最初に登場するのは私。
自分が手を広げても空を飛ぶことはかなわないけど、小鳥は私のように地面をはやくは走れないよ、と述べます。
次に、自分が体を揺すったところで綺麗な音は出ないけれど、鈴は自分のようにたくさんの歌を知っていて、歌うことはできないでしょ、と述べます。
最後に有名なフレーズが登場します。
「鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。」
これだけの短い詩です。
さて、この詩は何を伝えているのでしょう。
解釈はさまざまです。
いろんな解釈があっていいと思います。
その中で「みんなちがって、みんないい」に対する
私の解釈はこうです。
人と比べても良いけど、
自分には「別の視点から見たときの自分の良さ」がある。
ちゃんと「自分の良さ」を見つめて大事にしよう。
つまり「相手の良さを大事にする」が第一義ではない点です。
まずは、自分。自分が起点なのです。
他者ではありません。
この「自分の良さ」への姿勢がとても重要です。
ことづくりの「ともにスタイル」に関わります。
いろいろな場面で、共生を述べている記事や書籍に出会います。
意外と多いのが「相手のために」と述べている意見です。
自分のためだけでは生活できない。
人のために、という視点でビジネスは成功するとか。
相手を理解してあげましょうとか。
それは確かにその通りです。
しかし、これは「自分のため=自分勝手」と解釈しているのではないかと思えます。
自分に「人のため」と言い聞かせることで、自制心を保ち、志向し、対人や社会に貢献しようする姿勢を維持する方法としては理解できます。
でも、ことづくりを進める立場としては「自分を大切に」と伝えたいなと考えています。当然、そこには「俯瞰する」という姿勢が必須なのですが。
ちょっと難しい言い方をすれば、
他者のためと考えているのは、他者でなく自分なのですから、 他者の視点から見てしまうと「他者とは何者か」が明確になりません。
なぜならこれを考えているのは自分自身なのです。
自分の内(価値観)にある「他者」の概念なのです。
自分から見た他者は数限りなく存在していて、逆に見ればあなたの他者は、その人にとっては自分自身。
ですから、私の解釈では金子みすゞの詩を 他者理解に使用することには違和感を感じます。
自己受容こそが、金子みすゞがこの詩に込めかった思いではないでしょうか。
ことづくり生活は,まず自己受容から。
ありのままの自分を受け止めて大切にするところから。
こう考えるとこの詩にとても共感します。
以前、教育現場で他者理解のためにこの詩を用いる授業に出会ったことがありました。
幼い子供は、自分を不完全な存在と認識しているそうです。
ですから、親などの大人に責められると、自分が悪いと考えるとか。
そんな子供の根っこを育てるためには、湧きこぼれるほどの深い愛情、あなたはあなたのままでいいんだよ、と包み込んであげることではないでしょうか。
まずは丸ごと受け止める。
これは大人も同じです。
日常生活においては,いろんな状況が起こります。
例えば,精神的に追い詰められたときに他者理解を要求されるどうでしょう。
不安定な足元で他者理解をし続けるなんて苦しいだけです。
だからこその,まず自己受容から。
「自己決定感、自己有用感、他者受容感」とは、心理学者エドワード・L・デシが提案した自己を伸ばす力の要素ですが、そこに至る道筋の根っこになるのは、やはりあなた自身をまるごと受け止める考え方、そしてそのように振る舞うあなた自身から,他者や社会へのつながりを見つめることではないでしょうか。
(HP掲載は2016/04/26)
多様性っていう用語は結構世の中に氾濫しています。
社会の多様性とか生き方の多様性とか。
でも、多義性って言うと途端に学術的な雰囲気が出て、ちょっと敬遠してしまいがち、ということはないでしょうか。
早速ですが、多義性についてウィキペディアをのぞいてみましょう。
『多義性とは、ある対象が複数の意味で用いられ得ること、あるいは解釈できることを指す。または完全に一意に定義できないことをいう。』
ある対象とはモノ・コトの両方から捉えることが可能です。言葉もありますし、物質もあります。
直接的な、当初の意味を拡張することで生まれる新たな意味。それから別の価値が生まれます。暗喩はこれに該当します。
多義性と多様性の違い。
それは、モノとコトの違いに似ているような気がしています。
多義は一つの対象に込められた多くの意味。
多様は対象から派生する作用を伴った価値。
上記の分類はいささか乱暴ではありますが、本質を見つめるためには対象の多義性が欠かせませんし、広がりを見つめるには多様性が欠かせないと思うのです。
以前お話しした不便益についてもそうです。
不便益は、多様性を重視するからこそのアナログ的行為や、行為の本質から効率を除いた別のアプローチを積極利用しようとする試みです。
その試みは、多義の比較から発生しているとも言えます。
意味は解釈によってつくられます。
解釈は価値を判断する材料となります。
このように考えると、多様性は多義性によってつながっていると見えます。
どちらかを切り離したり、抜き出して議論しても本質に迫れず、誰かの価値観(無自覚な前提など)に行き着いて全体が俯瞰できなくなる恐れもあります。
モノやコト迫るには意味づけや価値づけが重要だ、というのがここにも表れているようですね。
今回の投稿はことづくりの基本です。
(昨年の投稿内容を再掲しようとしたのですが,少し改訂しました。)
かたちづくりを見つめて,
みなさんは、普段なにかを「つくって」いますか?
そう聞かれると「うーん」と考え込むことが多いでしょうか。
普段は何かを意図的に「つくっている」と考えて生活を送っているわけではありませんから、食事を作っているよ,などの回答が多く寄せられます。
では、質問を変えてみましょう。
どんな「想い」を描いて(つくって)いますか?
心の中で想いを「つくる」。
これは物理的な,物質的な存在をつくっているわけではありません。
夢や希望、不安や焦り、絶望や落胆、悠々自適さ。
これらも、こころの「かたち」と言えますね。
感情という要素の喜怒哀楽に愛憎を含めて、仏教では6情という考え方があるそうです。
加えて、時間的、空間的、経済的な束縛から解放されたいという願いや、理想をかたちにしたいという情熱など。
ものなら目の前に見えますが、「かたち」とは物質的とは限りませんから,こころで感じ取る必要のある存在だってあるでしょう。
まあ,物質であっても人の目では確認出来ない、気体のような存在だってありますし、立ち居振る舞いという所作や、技術や知識、制度や文化、仕組みなどもひとつの「かたち」と考えられます。
つまり、意味や価値などの根っこがあって、その枠を「かたち」と表現しているということでしょう。
そのように考えると、モノやコトには「かたち」があります。
かたちをかたちたらしめているその、根っこ。
他ならぬあなたの心が、そこにある「かたち」を認識していると考えることだって可能です。
そして「つくる」。
これはあなたの行為ですし,あなたが操作することです。
主体となる対象者が、素材となる対象に変化を与えます。
あなたの意図に関わらず、なんらかの作用を生み出す動きも起こします。
さて、私が考える。
それを「かたち」として受け止める。
これらは状態や事態、出来事や物語などがあると言われます。様々な表し方で出現させる(表現する)と、そこにもかたちが生まれます。
表現方法は大きく分けて、言語、音、造形、身体の4つがあるとされています。
また、人間の感覚には、触覚、視覚、嗅覚、聴覚、味覚の5つがあると言われます。
人によっては第六感という直感も含めるようです。
あなたが気づき、考え、判断し、行動し、検証する。。
その繰り返し。ここには全て「こと」というかたちがあります。
また、ものを通してことをつくる、こともあります。
表現しようと思っても、上手に「かたち」にできないこともあります。
想いとは関係なく、気がついたら別の「かたち」が見つかった、なんてことも起きます。
偶然の産物、なんて言われる場合もありますね。
ひょっとすると条件を自覚できていないだけで、なにかしらの必然なのかも知れません。
そう考えると、ちょっとワクワクしませんか?
誰かに与えられることでもなく、一般化されることでもなく、こうやって、考えるコト。それ自体がとても大切なのです。
さて、「かたちをつくる」を整理してみましょう。
どんな「かたち」にするか、を思い悩むよりも、
そこに「かたち」がある、と想いを馳せること。
そこに現れた「かたち」を受け止めましょう。
他ならぬあなたにとっての大切な「かたち」が,そこにはあるのですから。
(HP更新整理のため再掲,2016/4/26HP掲載)
今年度はじめてのまなびあい勉強会のお知らせです。
28thまなびあい勉強会
期日 2017年7月29日 13:40~17:00
場所 東植田事業所(高松市東植田町679-3)
講師 所沢市立三ヶ島中学校校長 沼田芳行先生
定員 16名程度
演題「主体的対話的な学びをはぐくむ三ヶ島アートプロジェクトII~朝鑑賞を媒介に~」
※ 勉強会終了後は懇親会を開催します。
勉強会参加費 1500円
ゆかいスタイル会員 1000円
懇親会費 2000円
沼田先生は社会科の先生だそうです。
その校長先生が,朝の短学活の時間帯に(登校したら朝の学習プリントやってませんでしたか?その時間が朝の学級活動の時間です)学校全体に対話による鑑賞を取り入れて,生徒の主体的,対話的な力を育もうとする,これまでにない挑戦的な取り組みです。
短学活というと10分15分程度しかありません。
また,「鑑賞」というと構えてしまう方もいらっしゃるかもしれませんね。
その短い時間も使い方で「生きる力」となる主体的で対話的で深い学びにつながるのなら,いろんな職場でも取り入れられそうです。
そこで実際にどんな活動をすることによって生徒を伸ばしているのか、どんな問題があったのか、これからどうしていくのかなどをお伺いすることで多様な気づきやきっかけを得て頂ければ幸いです。
一緒に〇〇する。
それは間違いなく「ともに」です。
一緒に何かをすれば共同ですし、協働もできます。
でも、ことづくり生活での「ともにスタイル」に込めた想いはそれだけではありません。
「ともに」の根っこは多様性です。
金子みすゞ(詩人)のように、みんな違ってみんな良い、のです。
一緒になる「場面」が異なっても、同じ本質を見つめていれば「ともに」になります。
この場合の本質とは、どこかの具体に固定されているわけではなくて、時と場合や見方考え方などで自在に変わっていきます。
誤解がないようにお願いしたいのは、「ともに」は全体主義とは限らないということ。
個人の多様性を尊重することだって可能なんです。
では、多様性とはなんでしょう。
これは先日も述べましたが、ひとつ補足しておきたいことがあります。
少し例示をしましょう。
とあるシャッター商店街。地元には高齢者が多くなったので、小さな雑貨屋さんと食料品店を開きました。
雑貨屋さんと食料品店という別の業態ですが、地元の活性化という点では「ともに」事業を行っています。
街のスーパー。品揃えもよく似ているけど微妙に違う。得意領域も違うので、利用者は日によって使い分けることができます。不沈をかけたライバル店ですからしのぎを削る毎日でしょうが、利用者目線では「ともに」成り立っています。
では、これはどうでしょうか。
商店街の再開発話が持ち上がりました。イメージを一新させて垢抜けたシンプルさでお店づくりをするようになりましたが、ある店主は昭和レトロな店構えにこだわりがあり外観の統一には参加しません。
人には、できることとできないことや、やりたいこととやりたくないことなどがあります。
それらを見つめずに統一させることは、多様性という視点から「ともに」とすることは難しいでしょう。
「同じこと」とは、見つめる方向によって異なるのですから。
多様性維持の方向を見つめる。
批判はしても、否定はしない。
これが「ともに」の原理原則です。
最終的に統一されることは問題ないのですが、最初からイエスマンが揃っても多様性は維持できません。
自分の意味づけや価値づけが異なっても、相手を受け止め、共感し、相手の良さを引き出す工夫をお互いにしたいという想いがなければ、とてもことづくりでの「ともに」とは呼べないと考えています。
これは夫婦間も同じです。
その人がもつ本当の人間性は、苦しい時に現れます。
その時に、意見が合わなくても支え合える。一部が理解し合えなくても協働できる。
そこに多様性を維持できる心構えがありそうですね。
この話はいずれまた。
5月から6月にかけて、昔は縁日が多く開かれていたように思います。
豊かな実りを期待してのお祭りだったり、農作業具などの販売だったりがありましたが、幼い私はもっぱらおもちゃやくじ引きなどに興じていました。
今や遊びはスマホなどの方が刺激的で、アナログ的な縁日はめっきり姿を潜めてしまって、少し寂しさも感じます。
そんな縁日の入り口にはいつもテレビに出てくる漫画や特撮のヒーローヒロインのお面と、綿菓子などがあったように思います。
最近はそういったお面を売っている場面はほとんど見かけなくなりました。これも時代でしょうか。
さて、仮面をかぶる場面というのはどういう状況なのでしょう。
仮面というのは変身願望を表していると言われます。縁日で並ぶアニメや特撮のキャラクターに始まり、能面やバリ島のお面など様々です。
偶像をつくらない文化圏以外では様々なお面がつくられ、それに伴う物語もたくさんつくられています。
変身願望というのは、大きくは別人になるということですが、変身することによって「そのかたちがもつ能力を得る」という意味ももちます。
例えばウルトラマンに変身して、スペシウム光線を放つ(古いですね)ことができる(と信じる。設定する)ようになるわけです。
鳥になれば空を飛び、ライオンになれば腕力を得て、普段の自分とは違う存在に身を置くことができます。
また、一般に仮面をかぶるというのは、本心を見せないことにも使われる言葉です。気持ち的に別人になることで、内面を悟られないように振る舞うことができます。
ただし、上手にやらないとボロが出て、相手の人からは本心がわからず信用を失うこともありますから、この場合は注意が必要です。
「猫をかぶる」というのも同様ですね。知らないフリをしても、会話には様々な落とし穴があると想定して対応することが苦手な方は、丸見えになります。
では、これをへそ思考で見つめてみましょう。
これらはこころが導く「空想」の領域です。そこに理屈を載せれば「理念」を付け加え、個別事案を増やせば「機能」が与えられて行きます。
お面一つとっても、こどもの「こころ」の中で「出来事」を生み出し、「仕組み」を考えることが可能なのです。
創造力の源がお面にあるといっては言い過ぎかもしれませんが、もっと自由に、縛りなく想像を楽しむ活動が生活の中でもっともっと広がって欲しいな、と思います。
先週から「オトナの音あそび」がスタートしました。
隔月の第三金曜日を基本にして、「オトナの造形あそび」と交互に実施します。
音あそびは、文字通り音を立てて遊ぶことです。音が出るのが基本ですから、パーカッションやカラオケも範疇ですし、簡単な音を出す楽器づくりなんかも検討中です。
参加者で「かたち」をつくっていきますので、初心者大歓迎です。
そこで私もウクレレを始めました。
4つのコードを押さえられると演奏できるという誘いの言葉にのって半信半疑の30分ほどで曲らしくなりました。
そのおかげで調子に乗って、毎日少しずつ練習しています。これまで演奏とは無縁だと思っていましたが、身近なことからスッと入れることもあるんですね。
みなさんも一緒にどうですか?
(このウクレレは自宅に眠っていたのを使っています)
先週は、ほぼ団体扱いな方たちの収穫祭を実施しました。
同じお仕事をされている方々なのですが少しずつ参加者が増えて、今回は子供を合わせて18名の参加でした。基本的に当施設は会員制ですから、会員の方がゲストをお招きするのは人数に制限はありますが自由です。3名の方が施設の会員になっています。人数が増えたので、ここ数年は個別に対応することになりました。
この日も梅雨とは思えない清々しい青空のもとで、じゃがいもを掘りました。慣れてきている人、初参加の人など様々ですが、皆さんで協力しながら収穫することができました。
他にもきゅうりやナス、ニラなどを収穫してその素材を元にランチづくりをしました。
また、今回は次への期待もイメージしてもらいたいと思って、秋の収穫祭に向けたさつまいもの畝の草抜きや落花生の苗も植えて頂きました。
最近では企業も厚生領域が減ってきていて、職場以外での触れ合いが減っているそうです。こういう場面では普段気づかない良さなどが見られたり、ざっくばらんに話ができたりするので、見直されつつあるそうです。
こぢんまりとした場所ですから大きなことはできませんが、ご興味がある方はお問い合わせ頂けると対応しますよ。一緒に考えて、心身ともにリラックスできることを楽しみましょう。