絶対は身にまとえるか

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今回は人は何を身にまとうか、でのお話しから少し視点を変えて見つめてみましょう。
人は何を身にまとうのか1
人は何を身にまとうのか2

最近は少なくなりましたが、生活をしていると以下のような呪文のような言葉が飛び交う場面を見かけます。

これは絶対安心です。
これなら絶対間違いありません。

この言葉に安心感を得る人は多いのではないでしょうか。
しかしながら、それが一番胡散臭いぞと思う人たちも一定数います。そのことばに込められたこころや出来事、仕組みに関する傾向を知っているからこその感覚ではないでしょうか。

逆に催眠商法など「本当はこれがいいけど、選択はあなたが。選択までの時間はわずか」というように時間を極端に制限させてじっくり考える余裕を与えないこともありますが、その話はここでは触れません。

さて、相手を騙すつもりがなくても「〇〇であるべきだ」という論陣を張る人は、図らずも絶対的な正しさがどこかにあって、自分はそれを知っている、というような傾向があるように感じます。

では、そこにある「絶対」を、人は身にまとえるのでしょうか。
結論から言えば、まとった気になることは可能です。

「絶対」というのは意味や価値の固定につながりますから、多様性を大事にする姿勢からは真逆な位置づけになります。
これは、ことづくりの考え方には合わないことが判っていただけるかと思います。何しろ、「も」の精神はここに宿っていますから。敢えて言うなら、『「絶対」は「も」にこそある』と言えるのかも知れないですが。

人は絶対の「なにか」を求める傾向があるのでしょうか。

恐らくここにあるのは、いわゆる普遍的価値なのでしょう。揺らぎない絶対的正義など現在の世界や社会情勢を見せられるとあり得ないのだろうねと実感させられますが、あって欲しいという願いも非常によくわかります。
特に「共生」ということには引き下がれない大切なことが詰まっています。

でも、誰のとっての、何のための絶対なんだろうか、という問題も残ります。

普遍的価値があるとすれば、それは軌道修正や方向転換などに上手に利用できるのが望ましいと思います。

手段も目的も、「解釈」によって意味や価値が異なるのは以前にもお話ししたことがありました。

気をつける「べき」人が落ち込みやすいこと。
それは超越的な世界へ安心を求める行為へ。さらには主観を超えた存在があるという前提が必要であることです。

何故なら、そこにある普遍的価値を受け止められない者との対立軸が生まれてしまうからです。

それぞれがそれぞれの意味や価値を大事にしつつ必要最小限までそぎ落とした新たな「なにか」を探り合い、お互いに認め合える意味や価値を受け止めあうこと(共通了解)が大事ではないでしょうか。

そして、それは柔軟に変更可能な状態を維持すること。
実はこれがとても大変なのですね。

なぜなら人は常に安定を求めているからです。敢えて「ゆらぎ」に身を置きたい人はあまり見かけません。
こころの迷いに耐えられなくなることがあるからです。
そういう人は恐らく超越的な存在を前提とする宗教家や、カリスマ性をもつ優秀な経営者ぐらいかも知れないですね。

かく言う私も迷いの真っ只中にいます。
ただし、それもまた楽しんでいく姿勢を大事にしているつもりです。

楽しみ方のひとつは概念くずし。
あり得ないコトを想像して、それが現実に起こった時を想定します。
あくまでも想像だという自覚はありますから、自在に効果や反応、必要な条件などの「機能(出来事と仕組みのあいだ)」について論理的思考で考えることができます。

こういった普段の生活の中で、文部科学省の掲げる学習指導要領にある、主体的、対話的な深い学びにおいて、見方や考え方を前面に出した経験主義的なことを補完しながら、生活に役立つ随意性や自覚性などの特性が育つのでしょうか。

なんにしても「絶対」に縛られることなく未来志向で、ことづくり生活での志向的恩恵を探る姿勢を大切にしたいですね。

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