春野菜に向けて

春野菜の栽培開始に向けて、耕運を始めました。

ここは新しい菜園です。

昨日は少し風が強かったですが、寒さは和らいでいました。

写真を撮っている景色がカフェの窓から見えるようになります。

ここにはジャガイモを植える予定です。ジャガイモは石灰をまく必要がありません。

まずはバーク堆肥をしっかりと土地になじませて、2月の中旬には植え付けができるように準備します。今回はバッドグアノもすきこみました。
明日は雨。来週は冷えるようです。

ちょっとだけ奥の葉物用の区画にも苦土石灰をまいてすき込めました。

ここで収穫される野菜はカフェの素材になるほか、少量ですが販売も視野に入れて取り組む予定です。

どうぞお楽しみに。

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ストレスからの解放

人は何をやっても、ストレスを感じるようですね。

ポジティブな場合、それは先へ先へと進みたい欲求があるからでしょう。
勉強ができたとしても、もっと先へという望みが湧きますし、やめろと言われてもやめられないところに難しさがあるわけですから。

ネガティブな場合、不安症であれば問題が解決されても次の不安が芽生えて堂々巡りをしてしまいます。なにかを解消できても気になる、という行為がやめられるわけではないようですから。

このようにポジティブでもネガティブでも、人はストレスを感じるようです。

今回は、それをへそ思考で見つめてみましょう。
へそ思考は大胆にも3つの領域しかありませんが、大抵の「こと」は網羅しています。

さて、今あなたがストレスを受けているのはどの領域でしょうか?

いくら確信的な論拠を得ているとは言え、あなた自身や他人から向けられるあるいは感じとれる感情や態度、取組や結果に対する疑問や不満や不信などがありますよね。
このように「こころ」は、空想と理念の世界を行ったり来たりすることもできます。

「出来事」に不満を感じているなら、それは機能もありますが、今の自分の考えは空想か理念かを問うのも、ひとつの方向が見えるきっかけを得られます。
空想に支配されていて現実味を失っているのかも知れませんから、その出来事を深めるための仕組みによる機能が何処かにあると考えて探れば解決法に出会えるかも知れません。

「仕組み」に違和感を感じるなら、それは機能的な視点か理念的な視点でひっかかりを感じているのでしょう。
より良い仕組みがどこかにあるのだとすれば、それを探し求める必要があるでしょうし、確証を得られるような信念がもてる「かたち」を探しているのかも知れません。

こう見つめると、単純にストレスからの解放を求めるのは意外と難しそうですね。

領域のさまざまな「つながり」からは、無縁でいられないからです。
たった3つの領域で見つめても、必ずどこかでつながっているのですから。

どうやら、ストレスからの解放を求めるよりも、どう付き合うか。
これが大事なようです。

これは腰痛や神経痛のような持病と一緒ですよね。

不平や不満よりも、その「コト」と上手に付き合う。
そのためには、ひとつの領域に捕らわれずに、今あなたが捕らわれている領域の外を見つめようとする姿勢が、きっとあなたの「こころ」自体も軽くしてくれるのではないかと考えています。

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存在と価値の承認

ありがとうって言われること、みなさんは普段の生活でどのくらいありますか?

これ。すごく嬉しい時や恥ずかしい時、よそよそしくなる時など、時と場合によっても感じ方が異なりますけど、概して幸せな気持ちにさせてくれるフレーズですよね。

この認められるという行為に対して、心理学では承認欲求との用語があります。
自分を認めて欲しいとする心情です。
たいていの場合、自分で自身を認められないと自信をもてているとは言えません。また、人に認められないのも自信をもてない原因になります。

承認の解説でより実践的な領域は、マズローの自己実現理論やデシの内発的動機づけなどでしょうか。
マズローは自己実現に向かうための5段階説をとっていて、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求の順にピラミッド状に組み上がっていて、認められたいとする欲求の現れはいろんな方向に向かうとしています。
デシは自己決定感、自己肯定感に加えて他者受容感の3つを挙げて、認められているという実感を得られる内発的動機づけの重要性を説いています。

認める(承認する)ということには、いくつかの方向があります。今回は存在と価値の二つを取り上げてみましょう。

まずは、あるべき姿をあるがままに認められるのが存在への承認ですね。どんな姿(容姿だけでなく考え方などの「かたち」)であっても人であれば人として理解し接する。
ところが、ややもすれば偏見や差別への負の姿が、ここには必ず現れます。

もうひとつは、それもありだよねという一つの方向に縛られないあり方を認めるのが、価値への承認ですね。

この二つはちゃんと分けて考えないと、いろんなぶつかり合いが起きてしまいます。
ことづくり的に言うと、モノとしての承認とコトとしての承認です。
ひとつの『対象化された「かたち」』と、『作用まで見つめた「かたち」』です。

対象化された「かたち」とは、人に限らず家や車もそうですし、男や女、若年や年配という区切りもあります。血液型がA型でも星座がおとめ座であっても、障害の有無であっても全て同じく対象化されたモノです。

作用まで見つめた「かたち」とは、様々な方向に伸びていく出来事を追い続ける姿です。どこかで固定した価値に縛りを設けるのではなく、その先に何があるかを思索し続けるコトです。

これはどちらも大事です。
人はモノ化された対象だとつかみやすいのですが、動的ないろんな方向に動く可能性のあるつかみにくいコトは、モノからつかむのが一番わかりやすいからです。

まずは存在を認め、次に価値を認める。

この前提から見ると、どんな存在もとりあえず認めていないと、次の価値承認にはたどりつけません。
自分の外にある全ての存在をまずは認める。念のために付け加えますが、これは受け入れるのではありません。あくまでも自分の外の世界のコトとして受け止めるのです。
受け入れると受け止める

ありがとう。
そこには2つの承認があると知っておく。
それだけで、人との関わりがより深く見つめられますよ。

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何「ごと」も意味3つ

問題に直面したとき、人はどうやって解決を図るかを懸命に考えます。
問題を把握し、解決に向けた手立てを実行して、解決を導く。
それはそうですよね。
放置したままで改善への蓋然性(見込み)などは把握しようがありませんし。

その方策(思考サイクルなど)は、PDCAなどいろんな理論などの「かたち」で取り上げられています。
でも、一番難しいのは「人それぞれ」なモチベーションの維持です。やらなきゃいけないことややるべきこと、やりかたなどは十分に解ってはいるけど続かない。いわゆる「三日坊主」に付ける薬があるのかと言われると、「人それぞれ」な部分が大きいのでなかなか難しいですよね。

これまでにも書きましたが、どんな「こと」にも3つの意味があります。
「無意味の意味」も、実はこの3つから見つめることが出来るのですが、今回は触れません。

さて、とらえどころを多くみせるのは、情動的な話術でよく用いられます。
物事をわかりにくくした方が、説明者の意図通りに運ぶことが出来るからです。
内容は本当に大したことでなくても、扇情的な言葉と懐柔的な言葉を巧みに挟み込んで人の「こころ」を籠絡させるのにのは、論理的な整合性がなくっても大丈夫です。
相手が信じてくれる「こと」。これが最も大事な結果なのですから。
人は自分の価値観を揺るがされたり迷わされたりすると、相手の述べる「確信」を盲信してしまう傾向がありますから、「こころ」から攻めるのが一番です。

良い面でも働きます。
情熱的に話をしている人に対して可能性に賭けてみようと決断する投資者のような関係性や、販売店で説明する営業マンの消費者側の生活スタイルに合わせた提案などがそうですよね。

そんなときにも、H.E.S.O.思考は自分自身を俯瞰させてくれます。
今、この人が話している「こと」はどこなんだろうと。

その時に役立つのが、へそ思考の応用編となる「事実と根拠と解釈と」です。
かたちを解釈する」でもお話ししましたね。

「事実」だと述べていることであっても、その人の「解釈」を誤認させられている場合もあります。
例えば「昨晩、夢枕に神様が現れた」などです。これはその人が『解釈したという出来事』が「事実」なのであって、「ほんとう」かどうかなどはその人の主観的判断です。

この、主観的判断を「事実」認定して既成化する状況は、日常生活の中で非常に多く起こります。

でも、どんな時であっても、いかに「すり合わせ」ができるかが大切です。
あなたの考えと合致するならそれで良いでしょうし、違うなら、異なる意見同士をいかにすり合わせられるかどうかです。
結果としてどちらかに絞らなくてはならない場合もありますし、合わせ技を考案する場合もありますし、全く違う方向を引き出す場合もあるでしょう。

自分自身の意図とは異なって、相手の意味や価値に無自覚に飲まれることにだけはならないような俯瞰の姿勢が、これからの多様な意味や価値をもつ社会の中で生活するためにも、個を大切にする社会では必要なのだと感じています。

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工房オープン

1月11日の今日、以前紹介したかたちづくり工房のオープンです!

かたちづくり工房には、家庭用ですがものづくりの機械などを置いています。

「かたちづくり」に込めた意味はたくさんありますが,大切にしたいのは出来映え重視のモノや出来上がったモノではなく,そこに至るまでの過程(プロセス)や出来上がったモノを用いた物語(ナラティブ)を愉しむことです。

ことづくり生活が主題とする「あなたらしさのかたちづくり」に向けた新規事業の第一弾。

ご利用には会員であること、予約制であること、そして利用料金が必要です。
詳しくはお問い合わせください。

あわせてのお知らせです。

3月26日には現在建設中の新館「ともにスタイル館」をオープンさせます。
ここには菜園活動や文化活動の基地となる「ともにベース」があります。
そして3月29日には、「ともにCafeこっとん」オープン!

来年度の活動に向けた新しい取り組みが目白押しです。
どうぞお楽しみに!

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わかることできること

これ。意外と無自覚で未分化な人が多いのです。
かくいう私自身もそうでした。そこで、どんなところがごっちゃになっていたかを今回は見つめてみましょう。

これは教育の場に対応する表現だと「できた(達成)・わかった(理解)」です。

できるのは、何かを操作して結果を得ることです。例えば、道具や知識を【操作】して起こした作用の先に現れた結果としてのかたちが、自らの希望に沿っていれば「できた」のです。それは自分自身の場合もありますし、自分以外の何者かかも知れないですね。

わかるのは、操作の再現性を知り得たことです。意図した結果を常に導ける、道具や知識の操作による【再現】のかたちに考えが至ったら「わかった」のです。

知識を得ることも「わかった」と言いますが、これも意図した疑問に対応する知識や知恵、つまり問いに対する答えという再現可能な既定経路を知り得たので「わかった」のです。解るとも書くように、理解が及んだ状態を示しています。

どちらにも【技術】が必要で、それは心身の「機能」を活用する必要がありますから、ふたつが重なった領域です。そしてそれらのあらわれに、人は「こころ」で成就感を得ます。

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よく似た、領域の違いを混同することは他でも起こります。例えば、主体が分離していない承認(了承)と成就(達成)の組み合わせです。

わかりやすく言えば「わかった(わかって)・かなえた(かなった)」です。

・仕組みがわかったから実験が成功した。
・あなたの気持ちが一緒だとわかったので付き合うことになった。

これは普通ですよね。でも、これならどうですか。

・あなたをわかってあげたんだから、私の願いを叶えてくれ。
・悩みを聞いてやったんだからちゃんと仕事しろ。

どうですか?
よくありそうでしょ?

わかった。できるでしょ。
できた。わかるでしょ。
っていうロジックですね。

最初のはあなたから私。後のはあなたから私ですね。

そもそも主体が移動しているのですから、前述のように単純にH.E.S.O.思考にあてはめようとしても、はて?と困りますよね。

あなたの「こころ」(自分自身の主観)で相手の「出来事」(他者主観による現象)を取り込んでも、相手を完璧に把握することはできませんから「空想」の域は超えられません。

また、主体が同じでも、わかってもできないことがあります。理論的は解明されていても、現実には非常に難解なこともそうですね。足りない何かがわからないから起こる事態です。

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わかるはず。できるはず。

これは、自分に対する問いかけで用いることにはなんら問題はないんですけど、他者に向かうと全てが空想なのでちょっと問題です。
はず、に込められた思いとは、対象者に対するあなたの望みという点では両方とも一緒ですが、これは把握し得ない他者への要望ですし、前述のように領域が異なります。

理解するのは心です。解釈次第でどんなかたちにも捉えられますから、あなたの理解と相手の理解が一致するには「はず」という曖昧さではなく、願いの実現には綿密なすり合わせが必要です。
そして、達成するのは外界に働きかけて(操作する技術を用いて)生み出すかたちです。

例えば、問いに対する解が「わかった」に続けて、答案用紙に書き込む操作(行為)によって正解すればテストが「できた」と言えますが、どちらにも異なる【操作の技術】が必要ですので「わかったんだからできるでしょ」とか「できるならわかるでしょ」いう言葉には説得力がないですよね。

このように一見よく似た言葉があった場合には、へそ思考に当てはめてみれば見えてくることもありますので、いろいろ試してみてください。

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かたちのあらわれかた

前回までのタイトルにある「人がする「こと」3」では、「あなたらしさのかたちづくり」に向けて、出来事を「経験する・つくりだす」の二つに分けました。

細かく見つめると、歴史的事実や噂のような伝聞を「知る」というのもありますし、突き詰める「探求」だけではなく、参考にする「参照」などのポジティブ要因もあります。更には、振り回されたり騙されたりするネガティブ要因の「翻弄」もあります。

これらの出来事には「こころ」と関わる部分もあり、その「こころ」に起因する部分が大きい、意識下で起こる体験などのコトも「経験」を積み上げる要素としています。

その出来事を端的に言えば、厳密な仕組みに基づく「かたち(現象)のあらわれ」となります。

何かしらの認知できる「かたち」になって現れた「事態」という表現もできます。

「あらわれ」は、時間の経過で起きる一地点を捉えたり、つながりで見つめたりしますので、おきた(発現)・すぎた(経過)・きえた(消滅)があります。

H.E.S.O.思考(へそ思考)では、あらわれ自体が出来事、あらわれに対応する気持ちがこころ、あらわれの原因が仕組みです。そして出来事に仕組みが繋がれば「機能」、こころに繋がれば「空想」、全てのつながりの中心に「本質」という意味や価値をもつと考えます。
出来事自体を見つめれば、それは対象化したモノです。何かを及ぼす出来事であれば、それは作用を伴ったコトです。

出来事には常に原因と結果が存在して、それは時間軸で言えば前と後です。現在起きている状況が、作用しているコトです。
日常生活ではいちいち深く考え込まない部分ですから、かなり難解ですよね。

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そもそも出来事に私たちはどういう関わりかたがあるのでしょうか。
それを『参加性』として、低い順に並べてみましょう。

【参加性(低)】
おきた(事態の出現=必然的「あらわれ」)
おいた(停止や保留による時間待機)
できた(関連性に基づく構成的結果)
きめた(主観的手法の決定や判断)
【参加性(高)】

「おきた」は、様々な事態の立ち現れで、現象と呼べる「出来事」の核です。これは光る、並ぶ、砕ける、話すなどのような数多の「かたち」ですから、広く「あらわれ」としましょう。
「あらわれ」は、厳密な仕組みの上に成り立ち、「おきた」は私たちから見て偶発的であっても、結果から遡れば必然です。意図通りではない事態は多少なりとも作為的ですから「できた」に入れても良いと考えます。
例えば、魚を干していたら猫に持っていかれた、のは可能性の1つとして起きた状況ですね。このようにAという行為にBが起きるとは必ずしも言えない事態の展開もあります。これは一つの原因から想定される結果はひとつではないからです。
見たい人が見たいところしか見ていないと、ひとつに短絡してしまいがちなのです。

「おいた」は、結論を先延ばししたり経年の様子を見たりするような、時間経過に委ねる出来事です。意見が対立したから少し頭を冷やすのもそうですし、洗濯物を日光の下に干して乾くのを待つのもそうです。
対象(モノ)が起こす作用(変化)を待つ姿勢ですから、期待したい結果があってもいつ起こるかは未定な場合と、知識や経験があるので想定できる場合がありますよね。

「できた」は、何かが関わったり、つながったり、反応したりなどの、原因から想定した結果へと向かう「かたち」の変化に参加が叶った出来事です。
小さな針の穴に糸を通す、という出来事は、放って置いてもきっと期待通りには起きないでしょう。これは人の能動的な対応によって成り立ちます。これは「やった」という成就感に繋がります。
また、「できた」という結果には、やらされ感のある受動的な活動もありますし、幼い子どもが遊んでいて面白いかたちを見つけたような、変化の行方を把握できていない偶然性もあり得ます。
例えば、知らずにA液とB液を混ぜたら爆発するのは「仕組み」を理解していない状態で起こした事態ですが、その出来事に関わった人が参加は「できた」としても結果を知らなかっただけです。

「きめた」は、事態に関わるその都度の主体者による判断です。どのような手段をとるか決定するのですが、それが誰かも含めて、何かが決まらないと先には進みません。ここには決めないという決定もあるのですが、それによってこの後に続く事態も起きます。

ほんの少し表現を変えてみましょう。
「おきちゃった」は、事態の前後が意図できなかった感じですよね。
「おいちゃった」はどちらかというと放置した感じで人任せですね。
「できちゃった」なんていうのは仕組みに無頓着な結果でしょうか。
「きめちゃった」は不安な中で覚悟のある決断をした状態でしょう。

また、これらは様々な組み合わせも存在します。
なぜなら出来事は連続性もあるからです。

それをちょっとだけ、両極で見てみましょう。

「起きたから決めた」は、「雨が降ったから傘を差した」などがそうですし、「決めたから起きた」は、「ブレーキを踏むと決めたから車が止まった」などでしょうか。

こうやって分析していくと本当にいっぱいあって、「生活」とは、「気持ち(こころ)」が追いつかなくても、「仕組み」が解らなくても、時間の軸に沿って常に流れ続けている「出来事」で成立しているんだと実感します。

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代入先の「こと」

みなさんは初詣におでかけになりましたか。
私は人混みが苦手なのですが、気持ちを切り替えるためにも出かけます。
その正月らしい雰囲気に触れる「こと」もまた、気持ちを新たに出来ますから。

今年も「ことづくり生活」で日常生活を楽しんでくださいね。

さて、H.E.S.O.思考は、基本図式に何をどう当てはめるかを自由に選べます。
それでも、お作法というかルールはあります。

例えば「怒り」ということばを取り上げてみましょう。
怒りのどの部分を取り上げるかで当てはめる先が変わります。

「怒り」という感情なら「こころ」です。
「怒った」という状態は「出来事」です。
「怒り方」という法則は「仕組み」です。

このように、一つの単語を取り上げても、その言葉のどこを見つめるかによって、3領域のどこに当てはまるかが変わります。

次に「柔らかい」という形状表現を取り上げてみましょう。
この言葉には対象となる、何が柔らかいかで決まります。
それでは、どこが柔らかいか(性質)を見つめてみましょう。

対話での物腰の柔らかさ(関係性など)は「理念」です。
粘土自体の柔らかさ(可塑性など)は「機能」です。
柔軟な思考の柔らかさ(想像性など)は「空想」です。

物腰や思考を機能に入れれば心理学的な問いになりますし、粘土はモノですが、そのモノが私たちに何を考え、感じさせるかで変わります。
例えば鉄とは違った肌触りという点で柔らかいという表現を使うこともあるでしょう。

当然ながらこれらが次にどこにつながるかはその都度、対象へのとらえで変わります。
例えば、粘土の柔らかさがどんな「出来事」を生みだし、「こころ」にどんな影響を与えるかなどのように、です。

他には、言葉自体のストレートな意味だけでなく、比喩や暗喩などもあります。

例えば「時は金なり」ならどうでしょう。
これを出来事にすればこころと仕組みが問えます。これは仕組みだとすると、こころと出来事を探れます。これは心の持ちようだとすれば、出来事と仕組みの具体例を探ることになります。

このように何の気なしに使っている言葉には、全て3領域に向かう意味をもっているのです。つまり、言葉にはひとつの意味ではなく、常に3つの意味合いがあるのです。

こだわりたい言葉や、気になる言葉に触れたとき、ぜひH.E.S.O.思考で俯瞰することを楽しんでもらえれば嬉しいです。

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今年もよろしくお願いします

あけましておめでとうございます。

今年もこれまで同様、ささやかでも「豊かさ」を実感できる日常のかたちを伝える仕事に打ち込みます。

その豊かさとは、人それぞれの主観です。

若い頃に読んだコラムに「貧しかった生活の中でも、毎日の終わりにお風呂に浸かって「極楽・極楽」という母の姿がとても印象に残っている」という話がありました。

心のもちようで、幸せを呼び込めるという姿勢を教わりました。

以来、この言葉は私にとって
「今」を俯瞰する大事なキーワードとなっています。

ことづくりは「自由」です。

これも、その昔SONYのコンポにリバティという機種が発売された時でしたが、自由は日本語ではひとつだけど英語はリバティとフリーがあって、リバティは勝ち取る自由で、フリーは与えられた自由だと教わりました。

「与えられるのではなく勝ち取れ」という響きに、若い情熱を掻き立てられたのを思い出します。

今は痒いところに手が届くサービスが氾濫しています。人が「してくれる」のはとても楽だし便利です。
それらを上手に活用しつつ、あなたらしいかたちづくりにも挑戦してください。

「ことづくり生活」で気づきやきっかけを得て、あなたが能動的に手に入れる、あなたらしい「豊かさ」を実感して頂ければ幸いです。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

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今年もあと少し

大晦日。

例年のお約束で、10時に高松三越までお総菜を買いに出かけました。
結構な混雑ぶりで、昨年よりは人出が多かったように感じました。

経済的なことや政治的なことはよく分かりませんが、みなさんの生活は少しでも豊かだと感じられる1年だったでしょうか。

何を「豊か」と感じるか。
その主要な要素は「こころ」です。これはひとそれぞれですので定式化された答えはありません。自分で探すしかないですよね。

ささやかでも、こぢんまりとしていても、そこに暮らしがある以上、それを豊かと感じられる「こころ」や「出来事」を大事にしたいなと考えています。
そのための「ことづくり生活」。
そのための「あなたらしさのかたちづくり」です。

来年まであと数時間を残すところとなりました。
いよいよ明日以降、「ことづくり生活」に向けたあたらしい取り組みが目白押しです。どうぞご期待ください。

みなさま、良い年をお迎えくださいね。

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