かたちのあらわれかた

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前回までのタイトルにある「人がする「こと」3」では、「あなたらしさのかたちづくり」に向けて、出来事を「経験する・つくりだす」の二つに分けました。

細かく見つめると、歴史的事実や噂のような伝聞を「知る」というのもありますし、突き詰める「探求」だけではなく、参考にする「参照」などのポジティブ要因もあります。更には、振り回されたり騙されたりするネガティブ要因の「翻弄」もあります。

これらの出来事には「こころ」と関わる部分もあり、その「こころ」に起因する部分が大きい、意識下で起こる体験などのコトも「経験」を積み上げる要素としています。

その出来事を端的に言えば、厳密な仕組みに基づく「かたち(現象)のあらわれ」となります。

何かしらの認知できる「かたち」になって現れた「事態」という表現もできます。

「あらわれ」は、時間の経過で起きる一地点を捉えたり、つながりで見つめたりしますので、おきた(発現)・すぎた(経過)・きえた(消滅)があります。

H.E.S.O.思考(へそ思考)では、あらわれ自体が出来事、あらわれに対応する気持ちがこころ、あらわれの原因が仕組みです。そして出来事に仕組みが繋がれば「機能」、こころに繋がれば「空想」、全てのつながりの中心に「本質」という意味や価値をもつと考えます。
出来事自体を見つめれば、それは対象化したモノです。何かを及ぼす出来事であれば、それは作用を伴ったコトです。

出来事には常に原因と結果が存在して、それは時間軸で言えば前と後です。現在起きている状況が、作用しているコトです。
日常生活ではいちいち深く考え込まない部分ですから、かなり難解ですよね。

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そもそも出来事に私たちはどういう関わりかたがあるのでしょうか。
それを『参加性』として、低い順に並べてみましょう。

【参加性(低)】
おきた(事態の出現=必然的「あらわれ」)
おいた(停止や保留による時間待機)
できた(関連性に基づく構成的結果)
きめた(主観的手法の決定や判断)
【参加性(高)】

「おきた」は、様々な事態の立ち現れで、現象と呼べる「出来事」の核です。これは光る、並ぶ、砕ける、話すなどのような数多の「かたち」ですから、広く「あらわれ」としましょう。
「あらわれ」は、厳密な仕組みの上に成り立ち、「おきた」は私たちから見て偶発的であっても、結果から遡れば必然です。意図通りではない事態は多少なりとも作為的ですから「できた」に入れても良いと考えます。
例えば、魚を干していたら猫に持っていかれた、のは可能性の1つとして起きた状況ですね。このようにAという行為にBが起きるとは必ずしも言えない事態の展開もあります。これは一つの原因から想定される結果はひとつではないからです。
見たい人が見たいところしか見ていないと、ひとつに短絡してしまいがちなのです。

「おいた」は、結論を先延ばししたり経年の様子を見たりするような、時間経過に委ねる出来事です。意見が対立したから少し頭を冷やすのもそうですし、洗濯物を日光の下に干して乾くのを待つのもそうです。
対象(モノ)が起こす作用(変化)を待つ姿勢ですから、期待したい結果があってもいつ起こるかは未定な場合と、知識や経験があるので想定できる場合がありますよね。

「できた」は、何かが関わったり、つながったり、反応したりなどの、原因から想定した結果へと向かう「かたち」の変化に参加が叶った出来事です。
小さな針の穴に糸を通す、という出来事は、放って置いてもきっと期待通りには起きないでしょう。これは人の能動的な対応によって成り立ちます。これは「やった」という成就感に繋がります。
また、「できた」という結果には、やらされ感のある受動的な活動もありますし、幼い子どもが遊んでいて面白いかたちを見つけたような、変化の行方を把握できていない偶然性もあり得ます。
例えば、知らずにA液とB液を混ぜたら爆発するのは「仕組み」を理解していない状態で起こした事態ですが、その出来事に関わった人が参加は「できた」としても結果を知らなかっただけです。

「きめた」は、事態に関わるその都度の主体者による判断です。どのような手段をとるか決定するのですが、それが誰かも含めて、何かが決まらないと先には進みません。ここには決めないという決定もあるのですが、それによってこの後に続く事態も起きます。

ほんの少し表現を変えてみましょう。
「おきちゃった」は、事態の前後が意図できなかった感じですよね。
「おいちゃった」はどちらかというと放置した感じで人任せですね。
「できちゃった」なんていうのは仕組みに無頓着な結果でしょうか。
「きめちゃった」は不安な中で覚悟のある決断をした状態でしょう。

また、これらは様々な組み合わせも存在します。
なぜなら出来事は連続性もあるからです。

それをちょっとだけ、両極で見てみましょう。

「起きたから決めた」は、「雨が降ったから傘を差した」などがそうですし、「決めたから起きた」は、「ブレーキを踏むと決めたから車が止まった」などでしょうか。

こうやって分析していくと本当にいっぱいあって、「生活」とは、「気持ち(こころ)」が追いつかなくても、「仕組み」が解らなくても、時間の軸に沿って常に流れ続けている「出来事」で成立しているんだと実感します。

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