よくあるのですが、「『こと』ってなんですか」の問いをする方に逆に問いかけると、実は聴いている本人も何を聞いているかわかっていない場合があるようです。
例えば「ものづくり」がありますが、その場でわざわざモノってなんですかとは問いません。それは具体的に対象となるモノが目の前のあったり、用語として括られた明確な概念があるからでしょう。
では、「こと」には具体性がないのでしょうか。
実は、逆にありすぎて選びきれない、というのが正確かも知れません。
例えるなら、モノは小さな専門店の集まり、コトは大規模量販店のような状態です。
静止画を見せても、その画像にはさまざまな「こと」が潜んでいます。
精神病理学者の木村敏が言うように「ことは同一空間に複数存在できる」のですから、写真を見せたからといって同じ想いが伝わるとは限りません。違う受け取り方をする場合もあるし、それはそれで許容される必要があります。
これはそれぞれの感じ方が異なっても良いという絵画鑑賞などと同じですね。
理念の絡む本質を見つめる時には、具体性のあるモノを中心に据えることで逆にずれたりぼやけたりしてわかりにくくなる場合があります。
それは出来事の過程で生み出された産物であるモノ自体が、単純明快な訳ではなく様々な解釈を内包しているからです。一つのことを一緒に考えているつもりでも、受け取り方で議論がかみ合わない場合だってありますよね。
H.E.S.O.思考的に言えば、その「仕組み」を述べているのか、形から受ける「こころ」の印象を述べているのか、「出来事」で生み出されたかたちをのべているのかといった3つの方向性があるから起こるのです。
さて、以前も「かたちのあらわれ」でお話しましたが、今日は別の見方をしましょう。
「コトとは何か」との問いに一番簡潔な返しは「あらわれ」だと、私は考えています。
その「あらわれ」ですが、ネット上にあった「違いがわかる辞典」から引用したのが以下の文章です。
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表す(表わす)は、表に出して示す、表現する、表明するという意味。
使い方には、「気持ちを表す」「文章に表す」「名は体を表す」「図に表す」「顔に表す」などがある。
現す(現わす)は、隠れていたものが見えるようになる、発揮するという意味。
使い方には、「姿を現す」「本性を現す」「全貌を現す」「才能を現す」などがある。
顕す(顕わす)は、広く世間に知らせるという意味。
使い方には、「世に名を顕す」「功績を顕す」「善行を顕す」などがある。
「現す」に換えて使われることもある。
著す(著わす)は、書物を書いて世に出すという意味。
使い方には、「本を著す」「多くの名作を著す」などがある。
このほか、あらわすには「明らかになる」という意味の「露わす(露す)」もあるが、「馬脚を露わす」のように漢文訳された言葉に使われる表記で、「現す」に換えて使われることが多い。
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「あらわれ」とは『外に出る・変化する』ことを確認できる必要がありますから、今回は幅広い意味をもつ「表・現」の2つから迫ってみましょう。
まず「表す」とは、主体がはっきりしている場合です。表し方には大きく4つの領域があって、言語、造形、音楽、身体に分けられます。「顕す・著す」では更に誰が何をどのように、という点などが明確です。
これらは表したい主体が用いることで誰かに届けたい「表し」を受け渡す役割を果たします。メディウムという表現をされる方もいらっしゃいます。「表し」のつなぎ役と言えそうですね。(「顕す」をつなぎ手と考えることも可能です)
次に「現す」とは、それを見つめている主体(私)とは異なる対象がなんらかの動作や作用を起こす場合です。これまでに存在しなかった場所や状況に出現する事態ですから、これは「現れ」としておきましょう。
現れは、こちらの意図通りとは限りません。地平線から月が「現れる」のは、仕組みを理解した上で予測して「現れ」を見つめていますし、頭角を「現す」のは私という主体に対して、対象者が一定の領域を超えて能力を発揮している場合に用いられます。
これらふたつの「あらわれ」は瞬間で切り取れば区別できますが、時間という軸を通してみれば様々に絡み合って連続しています。あらわれ同士の良し悪しも、その前後も明確ではありません。
つまり、あらわれとは「表し」と「現れ」が絡み合う【仕組み】によってひとつになっているのです。現象としてのあらわれは【出来事】を伴いますし、それを自覚し解釈するのは私たちの【こころ】です。このように「あらわれ」にも3つの方向があります。
あらわれをみつめている者の意図の働きを具現化したのが「表し」であり、意図とは違う仕組みで起こす作用が「現れ」となります。
バネは針金がねじれているからこそ価値があるように、「あらわれ」とは表しと現れが「輻輳」しているからこそ価値があるのです。(前述の「顕す」が両者のつなぎ役という考え方もできます)
そしてその「あらわれ」こそが「かたち」という有形無形な状態をつくりだします。
ですから、私は「こと」を「かたちのあらわれ」と呼ぶようになったのです。