隠れ家プレオープン5周年

〜あなたなりの過ごし方を愉しむ空間〜

看板もなく、電話帳にも登録がなく、知る人のみが訪れることのできる施設としてオープンして間も無く5周年を迎えます。

期日 2017/4/29   10時〜18時

この日の訪問者にはささやかなプレゼントをご用意してお待ちしております。(数に限りがあります)

自分を大切にして、自分と周りを俯瞰する姿勢。

「ことづくり生活」を今後ともよろしくお願いします。

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「こと」は世界の捉え方

〜論理は「こと」で構成されます〜

ことづくり生活を前面に押し出して活動を進めていますが、実は「こと」の説明には、毎回悩まされます。

一言で簡単に説明する置き換えの言葉がなかなか見当たらないのです。
今のところは英語表記と同じで、いろんな事例を羅列するしかありません。
そうすると今度はそれぞれの事例を説明する必要があって、初めての人が説明の長さにうんざりすることも。

それはこういうことですね。
と、ひとことで言うには。

ことは生活です。
ことは考え方です。
ことは自由です。
ことは生き方です。
ことは作用です。
ことは哲学です。

どれも正解なんですね。
そんな中、最近は「世界の捉え方」と答えています。

これは哲学書を読んでいて見つけた表現です。
哲学は生き方指南書と思われる方もいるそうですが、世界をどのように捉えて解釈し、理解に向けた理論化を進めるかに力点が置かれているそうです。

世界とは身の回りの日常から、自分の知らない世界や理解を超えた世界も含まれます。
心の世界を深めて行くと心理学となりますし、見えない死後の世界観までも含まれると神話や宗教学になります。

どれにも共通するのは論理性です。それは学問という前提があるからです。

ただし、単に個人が自己中心的な主張をするのもまた「こころ」が導く「出来事」ですから「こと」です。

学術観からの理論であっても、個人の主観で導かれた価値観からの主張であっても、へそ思考から見れば全ての論理は「こと」です。

モノを理解する際にも、そもそもの存在に突き詰めると理論です。

なぜモノが存在するのか。
なぜモノが必要なのか。
このモノはどういう構成組成か。

モノの意味や価値、それは「こと」です。

あなたが生活している世界。
そこには物質としての「モノ」があり、その世界の捉えとしての「こと」があります。
その「こと」が様々な「場」に意味や価値が与えられ、人の生き方に戻ってきます。

モノや場の存在や効果に意味を与えているのは、あなたの世界観からくる論理なのですから。

その思いを大切にしつつ未来志向を目指す。

ことづくり生活を自分なりに楽しむための具体的な内容を、皆さんと一緒につくれると楽しそうですね。

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「対話」を俯瞰してみる

私の周りは美術教育関係者が多いので、最近は「対話による鑑賞」などの情報交換や意見交流などの要素に対話という用語が盛んに用いられています。

そこで、今回は「対話」をへそ思考から見つめてみましょう。

まずはじめに「対」の意味を洗い出します。

対には大きく分けて「たい」と「つい」という読みがあり、それぞれに異なる意味が込められているようです。

「たい」とは相対化の意味があります。向き合っている姿勢ですね。

「つい」とは一体化の意味があります。寄り添っている姿勢ですね。

「対話」と一言で言っても、どちらで捉える(解釈する)かによってそれぞれの意味が異なりますから、価値観などの方向性も変わります。
ですからどちらか一方で議論するのではなく、両方を組み合わせるハイブリッドな姿勢(「輻輳」など)が大切になってくることがわかります。

この場合にへそ思考を用いる際は、仕組みなどの3領域に「対話」が入るのではなく、意味や価値の部分、つまり中央に対話を組み入れます。

そうすると、対話の具体的な全体像を俯瞰(見つめる)ことができるようになります。

「仕組み」に先ほどの
「たい(相対化)」を代入した場合の「出来事とこころ」。
「つい(一体化)」を代入した場合の「出来事とこころ」。
それぞれを見つめてみましょう。

「たい」となる場合の「出来事」は、討議状態でしょうか。
内容の論理的裏付け(仕組み)が異なる場合もある解釈を行い、効果や構造など(出来事と仕組み)を導き出して、切磋琢磨している様子(出来事とこころ)が見えて来ます。

「つい」となる場合の「出来事」は、共生状態でしょうか。
相手と共に生きるかたちが組み込まれた(仕組み)動物や植物や、夫婦間の関係などひとつのかたちをつくっている様子(出来事とこころ)が見えて来ます。

どちらも、人との関係性においてとても大切な役割を果たしてくれる姿勢です。
そこには「受け入れると受け止める」という考え方も含まれます。

「対話による鑑賞」という方法はいろいろあるそうですが、基本のひとつであるMOMA(ニューヨーク近代美術館)のVTS(ビジュアル・シンキング・ストラテジーズ)の手法を日本で広めた福のり子先生(まなびあい勉強会での様子)は、その説明をする際にキャッチボールを例示していました。
「受けて、投げる」という一連の動作は、どこかを切り取るのではなく一体として考える必要があるということです。

さて、今回の対話に挙げた二つの関係性(「たい」と「つい」)における共通項は何でしょうか。

私は、いつもことづくり生活の話題に登場する未来志向な姿勢がとても重要だと考えています。

二項対立に落ち込まないように意識しながらとことん議論しあい、実働では共に生きる方向を俯瞰し模索し、適宜修正を加えながらも前に進む姿勢。

これからの社会生活においては特に意識する必要を感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。

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施設間の距離把握

今年度から事業施設が三カ所になりました。

左下の黄色いマークが隠れ家。現在こと館と呼ばれている施設です。東植田事業所と名乗っています。

左上のマークは川島東農園。主に米を生産している農地です。

そして右下のマークは十川東事業所。これから「ことづくり生活館(仮称)」を建設予定の宅地&農地です。

法人が農地を所有するには、農業生産法人でないと所有できない農地法の仕組みがあります。ですから農地は個人から法人が借りるスタイルで運営しています。

信号はないのですがそこそこ距離があるので、歩いて移動するにはちょっと時間がかかります。そこで現在は軽トラを移動手段としています。

今年度は、ここにモビリティビーグルと呼ばれる超小型EVを導入できないか検討中です。

特に、今後はカフェ経営などを予定していますので野菜を収穫して拠点間で移動させられる必要が出て来ます。

検討中の乗り物のいくつか候補に挙がっていますが、もしみなさんの中で楽しそうな案があれば是非教えてください。

何にしてもワクワクすること。

これはことづくりにおいて必須の条件ですからね。

 

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へそ思考は単なる道具

これまで、ことづくりでのへそ思考をずっとお話しして来ました。

ご理解いただけていない方にも改めてお伝えしますが、へそ思考は説明原理のようであり、公式のようでもある存在です。
ですからこれは正解を表す真理などを導くもの(対象)ではありません。

意味や価値に込められたこと(作用)などを見つめる道具です。

人は悩んだりわからなかったりするとすぐに正解へたどり着きたい願望が頭をもたげます。
数学など難しい問題を解いていて、すぐに回答を確認したくなる人などはこの傾向が強いのでしょう。私自身がこのタイプでした。

でも、日常生活の中でこれが絶対的な正解というのはほとんどありませんよね。

ずーっと遡った原理原則論にでもなれば話は別ですが、いちいち日常生活でそんなことをしていると疲れるし、手間がかかるし、何やってるかわかんなくなって来ます。

まいっか、と保留せざるを得ないことは結構多いのです。これができないと脅迫観念にさいなまれることになってしまいます。

水が飲みたいだけなのに、蛇口とは、命とは、なんて問答をいちいちやってられないですけど、そこに縛られてしまう方も残念ながら一定数いらっしゃるようです。

たとえばキリスト教信者は、自然物の中で十字を見つけた時、そこに意味を込めて受け止めることがあるでしょう。それは観察者である本人がそうしたいからですから、それを辞めなさいと言ったところで仕方ないでしょうね。

異なる宗教観の方にその「解釈」を理解させることは可能でも、納得させることは困難です。それを理解せずに相手に自分の価値を「受け入れ」させようとしても摩擦が生じるだけなことも、これまでお話しして来ました。

何かを見出し、意味を引き出し、自分にとってより良く組み上げる。これを繰り返しながら、人は生活しています。

これが「ことづくりの姿勢」で表している人の未来志向過程のサイクルです。

以前もお話ししましたが、意味や価値は最終的にはあなたが見つめて導き、こころに落とし込みます。

たとえ誰かに諭されたとしても、そこにある意味や価値があなたのこころにストンと落ち込まなければ納得できないでしょうから。

へそ思考は、「ことに向かう」あなたの思考原理を大胆に単純化しているだけです。

とはいえ、いつも言っていることですが、へそ思考自体が答えを導くのではありません。見つめる先を明瞭化してくれるだけです。

ということで、これ(へそ思考)を解釈するのは単純に見えて意外と複雑なんですよね。

これ自体に何らかの意味や価値があるのか、と問われると「あなたが世界を見つめるために役立つ見方を提供する」ことに意味や価値があるんですよ、と言うのが私からの返答となるでしょうか。

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アスパラが発芽しました!

昨年の春前に植えて1年間ずっと育てて来たアスパラガスが発芽しました。

中央には枯れた茎が写っていますが、これが昨年の茎の太さでした。

昨年の冬には除草し、バーク堆肥を施して目覚めの時を待っていましたが、ついにその日を迎えました。

今年はどのくらい収穫できるでしょうか。今からとても楽しみです。

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バイアス(偏り)のある心

常に公明正大な心を保ち続けることができますか?と問われると、私は無理だなぁと答えるでしょうか。
やはり感情に影響を受けることが多いからです。

それも含めて、人の心の動きには、バイアス(偏り)があるそうです。

いろんな状況で起きる私たちの「そうであったらいいなぁ」という願いが考え方に影響を与えているそうです。

学術的には行動意思決定論などに「認知バイアス」という考え方があって、その中でも確証バイアスというのが有名です。
確証バイアスとは、自分が正しいと思う方向の事実や根拠が出てくると「そうそう、そうだよね」と、そこに正しさの根拠があると盲信する心の動きです。

実はバイアス自体は問題ではありません。むしろあっても良いと思うのです。
問題は「偏りがない」状態を無自覚に受け入れてしまうことです。

それは多くの人が「客観性」という、人の意思が介在できない状態を偏りがなく望ましいかたちだと考えているからではないでしょうか。

しかしながら人にはそれぞれの意思があり、価値観があります。
こだわりがあり、ムキになればなるほどバイアスにとらわれる傾向にあります。

「バイアスとの付き合い方」をへそ思考で例示すると、たとえば

仕組み〜偏向に囚われる心の構造
出来事〜あらゆる知識や経験など
こころ〜認知に至る心情など

でしょうか。

この関係性を見つめることで、バイアスに囚われない方法を探ってみましょう。

これも一例ですが、
こころと仕組みからは
「囚われるという前提を自覚する」
こころと出来事からは
「多様な知識や経験を入手する」
仕組みと出来事からは
「態度維持のための高効率な構造」
が見えてきます。

人には「こころ」がありますからバイアスには囚われるのが前提です。
そう考えると、囚われないようにもがくよりも少しは気が楽になりませんか?

ことづくりから見つめると、仕組みと出来事の間で変化するかたちはバイアスとは言いません。変容です。

こだわりがない人は、バイアスに囚われにくいでしょう。ただし、感情に現れにくいという点も内包しますし、支持に服従しやすい態度も示しますので、ちょっと気になる態度かもしれないですね。

ことづくりの施設においては、基本的になんでもオッケーですが、「ともに」というこだわりだけは外せません。
周囲の迷惑も顧みずにわがままし放題まで許されることはありませんから。

みなさんは、自分にはどんなバイアスがあると自覚していますか?

いざという時にそのバイアスに囚われないために、へそ思考で関係性を俯瞰してみましょう。

特に囚われそうな領域(よく知っていると思う領域など)について、違う視点や価値観などを含む、より多くの知識や経験を得られるように行動するなどが大切になってきそうですね。

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枝豆パッケージ

3月から育苗中の枝豆も本葉が出て来ました。
そうするとちょっと欲が出て来ます。

他の品種を探していると、黒枝豆を見つけました。
「何故か惹かれる。。」

パッケージをよーく見ると、そう。
茹でた枝豆の写真です。
普通は野菜が成長した写真を使うのですが、なんとこれは調理した時の写真を使っています。
パラパラと塩が振りかけられた様子を見ると、早くも夏場のビールを想像します。

ということで黒枝豆を育てます。
どんな味でしょうか。楽しみです。

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「輻輳」という考え方

あなたの今の考え方や性格などはどうやって組み上がったとお感じでしょうか?

発達段階における心理学的要因を説明する場合には、遺伝子的要因か、環境的要因か、という捉え方があるそうです。

過去いろんな学者が議論してきて、現在は両方が輻輳的に作用しているとの考え(シュテルンやジェンセンらの理論など)が一般的になったとか。

「輻輳」とは、混み合った状態をさす言葉だそうです。IT用語では停滞状況も含まれるようですが、心理学ではどちらかと言うと相互作用といった、共鳴し合って新たな展開を見せるかたちとして捉えられています。

ことづくりには「すり合わせ」が大切です。それは、二項対立を避けることもありますが、新しい見方や考え方を見つめるプロセスでもあるからです。

心理学という学問において輻輳という考え方が生まれたのも、AかBのどちらかに決めるための決定打がなく、悶々とした中でCを求めるという「合わせ技」が必要になったからでしょう。

ここにも「すり合わせ」の重要性が見えます。
対立軸を戦わせてお互いが納得できるかどうかではなく、プロセスの中でその場の回答を積み上げながらこの時はこれで行こう、と共通項を組み上げたかたちをつくること。

ここでは絶対的な真理の追求を目的としているわけではありません。解釈を共有して、その先を見つめるために行う活動です。

この考え方はいろんな出来事を進めるときもそうですし、人との人間関係にも当てはまります。

たとえば、好きな人はこういう人!と理想を掲げることも大切ですが、この人となら「新しい自分をお互いにつくっていける」と、お互いが未来志向で関わり、すり合わせができる人との出会いであれば、より人生を豊かにしてくれそうですね。

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投資と投機の違い

教育は未来への投資と言われます。
子供たちがつくる未来が素敵であれとの願いを込めて、関係者は教育を行なっていることでしょう。

教育は投機とは言いません。
でも、投機的な教育も残念ながらあるようですが。

投資や投機とは、基本的に金融界の用語ですが、違いはどこにあるのでしょうか。

株式を購入しても、中長期的に会社が育つことを狙えば投資と言われます。一方短期的に収益だけを求めて購入することは投機と言われます。

「菜園の哲学」的に言うと、菜園の土づくりを行い多くの実りを得るために肥料をまくなどの投資をします。
具体的な「活動」は野菜に任せますが、より効率が良くなるように自分のできること(手助けなど)をします。
そういった投資をすることで、より豊かな実りを得ることが目的です。
対象(者など)と一緒に歩みを進めることです。

投機は不確定要素が多くても短期的により多くの収益を得ることが目的です。プロセスをひとつずつ達成するより、一気に目標としているゴールを目指すのです。

更に、もっとわかりやすい違いはないものかと、ネットにある辞書を調べて見ました。

投資:利益を得る目的で、事業・不動産・証券などに資金を投下すること。転じて、その将来を見込んで金銭や力をつぎ込むこと

投機:将来の価格の変動を予想して、現在の価格との差額を利得する目的で行われる商品や有価証券などの売買。

上記の要素を勘案すれば、誰かが行う活動を応援し、発展に寄与することで副次的に「収益」を得るのが投資。ちなみに、収益は金品とは限りません。

誰かの活動を利用し、自分の利益を最大に確保しようとするのが投機。
この投機も厳密に言えば金品とは限りませんが、まぁ大抵は金品でしょうね。

もっとシンプルにすると、
成長を期待する共存関係が投資。
自分本位の関係が投機。
という分け方もできそうです。

そこから見つめると、例えば最近流行っているクラウドファンディングで「ホームページにお名前を記載します」などは、果たして双方が望んでいる「利益のかたち」なのかと、考える余地がありそうですね。

この、投資と投機という視点は、いろんな「ことの本質」を見つめる時に大切な心のあり方を気づかせてくれます。

誤解のないようにお願いしたいのですが、必ずしも投機は悪ではありません。

広く一般的な状況で、この投資となる活動が深まれば経済活動に限らず、もっと社会全体が盛り上がるのではないでしょうか。

金融の世界で「お金に働いてもらう」と言われるのは、実はここに本質が隠れているようです。

最後に、教育の話へ戻してみましょう。

未来を創るのは子供自身です。
必要な知識力、判断力、応用力などが養われるように学びや育ちを仕掛けること。それが教育者の資質能力でもあります。

しかし教育する側の自分本位な姿勢が出てくると、子供を投機的対象として自分が上に上がる、つまり実践や研究に利用する教育関係者となってしまいます。

さて、今回の結論です。

投資には、相手を「見守る」姿勢が欠かせません。
そして「見守る」ができる仕掛けをつくることも大切です。
そして未来志向を自覚することです。

こうしてみると、金融も教育も本質は人が関わることですから違いがないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。

さて、みなさんはどうお感じになりますか。

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