私の周りは美術教育関係者が多いので、最近は「対話による鑑賞」などの情報交換や意見交流などの要素に対話という用語が盛んに用いられています。
そこで、今回は「対話」をへそ思考から見つめてみましょう。
まずはじめに「対」の意味を洗い出します。
対には大きく分けて「たい」と「つい」という読みがあり、それぞれに異なる意味が込められているようです。
「たい」とは相対化の意味があります。向き合っている姿勢ですね。
「つい」とは一体化の意味があります。寄り添っている姿勢ですね。
「対話」と一言で言っても、どちらで捉える(解釈する)かによってそれぞれの意味が異なりますから、価値観などの方向性も変わります。
ですからどちらか一方で議論するのではなく、両方を組み合わせるハイブリッドな姿勢(「輻輳」など)が大切になってくることがわかります。
この場合にへそ思考を用いる際は、仕組みなどの3領域に「対話」が入るのではなく、意味や価値の部分、つまり中央に対話を組み入れます。
そうすると、対話の具体的な全体像を俯瞰(見つめる)ことができるようになります。
「仕組み」に先ほどの
「たい(相対化)」を代入した場合の「出来事とこころ」。
「つい(一体化)」を代入した場合の「出来事とこころ」。
それぞれを見つめてみましょう。
「たい」となる場合の「出来事」は、討議状態でしょうか。
内容の論理的裏付け(仕組み)が異なる場合もある解釈を行い、効果や構造など(出来事と仕組み)を導き出して、切磋琢磨している様子(出来事とこころ)が見えて来ます。
「つい」となる場合の「出来事」は、共生状態でしょうか。
相手と共に生きるかたちが組み込まれた(仕組み)動物や植物や、夫婦間の関係などひとつのかたちをつくっている様子(出来事とこころ)が見えて来ます。
どちらも、人との関係性においてとても大切な役割を果たしてくれる姿勢です。
そこには「受け入れると受け止める」という考え方も含まれます。
「対話による鑑賞」という方法はいろいろあるそうですが、基本のひとつであるMOMA(ニューヨーク近代美術館)のVTS(ビジュアル・シンキング・ストラテジーズ)の手法を日本で広めた福のり子先生(まなびあい勉強会での様子)は、その説明をする際にキャッチボールを例示していました。
「受けて、投げる」という一連の動作は、どこかを切り取るのではなく一体として考える必要があるということです。
さて、今回の対話に挙げた二つの関係性(「たい」と「つい」)における共通項は何でしょうか。
私は、いつもことづくり生活の話題に登場する未来志向な姿勢がとても重要だと考えています。
二項対立に落ち込まないように意識しながらとことん議論しあい、実働では共に生きる方向を俯瞰し模索し、適宜修正を加えながらも前に進む姿勢。
これからの社会生活においては特に意識する必要を感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。