モノは仕組みで分解される1

1 ≪ヒト・モノ・カネ≫

ビジネスの世界では未だに「ヒト・モノ・カネ」と言われます。

これは経済的というか物流的な考え方で、極力心情を排していわゆる客観性を重視しているのですが、人がモノに金を使うのは、その人なりの意味づけ価値づけがあって初めて行われる行為です。
ですからその最たる根幹部分を外に放り出した議論というのは、モノを売るという観点から見つめようとしても、足りない部分があるとわかります。

なぜなら、売る側も買う側もともに「売りたい・買いたい」ことへの「想い:こころ」があるのですから。
そして、そこには「こと」が介在する必然性が生まれてくるのです。

モノが物理的に存在しうる、その状態を保つなどの条件(コト)には、へそ思考で言うところの「仕組み」が関与しています。

例えば、絵の具はその素材の組成条件に沿っています。顔料や染料といった成分の違いや発色や退色の度合いなども、その組成条件によって異なります。

また、人の意思が積極的に関与したとしても、水面に鉄のボールは浮きません。例えば水面を凍らせて水を変質させるなどの条件を変えれば可能になります。
念じれば浮く、のは漫画の世界です。エンターテイメントとしてのマジックショーには、必ずトリックという「仕組み」がありますからね。

水と空気を編み上げた衣装、なんてものも存在しません。だからこそ、そこには空想の楽しさが生まれますし、実現不可能に思える概念崩し的な発想も生まれます。

この不可能なことを可能にする方法は大きく2つあります。
あくまで空想レベルで留めるか(空想)、条件を満たした物理的要因を考慮(機能)するかです。また、理論的には可能でもその技術の進歩が追いついていない場合(理念)もあります。

時間という要素や光の特徴などを見ていると、両方の特徴や意味を含む場合もありますから、一概にモノコトを線引きするのは難しいかもしれませんが、考えなくて良いということにはなりません。
なぜなら人は答えのない問いがあることによって志向的にも絶望的にも未決(保留)的にも生きられるのですから。

もっともっと極論すればモノとは何らかの素材によって組成された物質ですから、1万度という高温にさらされると全てがドロドロに融解します。気化して霧散することもあります。特定の固体として存在することは非常に困難です。ここでは環境温度という「仕組み」に存在を握られていると考えることもできそうですね。

続きは次回へ。

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オトナの造形あそび

今夜はオトナの造形あそび。
最近は二ヶ月に一回のペースでやっています。

今回のテーマは「畑の守り神」。
それぞれにイメージを広げてつくること約1時間。
そのあと、作品を前に話し合い、質問しあい、物語をいっぱい出し合いました。

紙粘土で手を動かしてつくるって楽しいですね。

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新施設の起工式

18日は朝から凄い雨が降りました。
この日は10時から、新施設建設に向けて第1期の建設を始める起工式でした。
幸い祈願している時間は雨が収まって、滞りなく終えることができました。
飛地となる三角地には先行して駐車場建設を始めています。
時折こういった記事も掲載予定です。
ハコが完成するのは11月。
スタートするには2年の歳月を要しました。
どうぞお楽しみに。

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「ほんとう」のこと

その昔、手塚治虫のマンガ「鉄腕アトム」のストーリーで、ロボットは嘘をつけないがアトムは人にとって必要な嘘をつくというシーンがありました。
それが思いやりなんだと幼いながらも記憶したものです。

相手にとって必要な嘘というのがあり、嘘をつくのは時として必要かも知れませんが、実際できないことをできるとは言えませんし、やろうとしても無理が生じます。
(※ 絶対は身にまとえるか)

例えば、可能性の話であれば嘘にはなりません。ガン疾患で闘病中の患者に「大丈夫、良くなるよ」という声かけは可能性の話をしているのですから、決して嘘をついているわけではないですよね。未来志向はどんな時にだって必要ですから。

さて、学問的に「ほんとう」というのは、なかなか難しいようです。
それは「絶対」や「普遍」といった意味合いも含まれてくるからです。

普段の生活であれば、なんとなく「ほんとう」かな?であったとしても何の問題も起きません。人はいちいち確証を得て、解釈して、正確に事態を把握し、理解しながら生きているわけではなく、結構な頻度で曖昧さを受け入れて生活していますから。

それでも「ほんとう」を探る人は哲学者に限らず、世の中にはたくさんいます。
誰が何をどのように捉えて考えてもそれは自由です。自分や周りを生き生きとさせられるのであれば、これ以上素晴らしいことはありません。

でも、どんな風に考えたとしても、これだけは欠かせないコトがあります。

「答えは常にあなたの中にある」

何をどのように捉えて解釈しても、あなた自身が導き出すコトに大切な価値があります。それはすなわちあなた自身が能動的に、主体性をもって生活していることの表れです。

その時々の判断が正解であっても間違いであっても、それはあなたがあなたの中で導き出した答えに沿って判断したこと。
それを喜んでも悔いても良いでしょう。その時々の自分自身の想いと誠実に向き合えて、受け止める心構えがあれば。

そんなことも全部わかっているけど、日常生活では悶々とそこから抜け出せなくなった気持ちになり、誰かの何かの「仕組み」を使って抜け出したくなることも起きます。それも至極当然の心の動きです。

でも、そんな自分を好きでいられること。

人を好きな自分を好きであれ、なんて自己愛の塊みたいですね。
これは人を信じられない、不安に駆られた時に自分に問いかける言葉でもあります。
言い方を変えれば、人の喜びを自分の喜びにできる自分を好きであれ、になるのでしょうか。
更には、自身の喜びを他者の喜びにできる自分を好きであれ、と言い換えればどうでしょうか。

でも、これだけでは自分勝手さからは抜け出せません。
なぜなら自分の価値づけが正しいという考え方で、人に自分の価値観を押し付けることにつながりかねないからです。

「あなたの喜び」とは、「私自身」がいくら考えても正確に把握できないことは、ことづくりでは「ほんとう」のひとつです。
だって、私はあなたではないのですし、あなたも私にはなれません。それが最も根幹の前提です。
まぁ、なった気にはなれます。これはお面の例でお話しした通りです。

ですから、対話を繰り返してお互いの共通了解を増やし、高め合うことが大切になるのです。

その上で、様々な他者のわからないことや理解できないことの中にあっても、相手を想う自分自身を好きでいられるかどうか。自分自身を想う相手の想いには、どのようにすれば応え続けることができるかどうか。

自分のために人を使うような打算的な人たちには、これが欠けていると思うのです。

「ほんとう」とは、どこかにある超越的な存在ではなく、様々な価値観と関わりの中で私たち自身が作り出していく想像性と創造性の必要な『心構え』ではないでしょうか。

ここにも、自己満足で終わるか自己実現を目指すかの違いがあると考えるのですが、さてみなさんはどうお感じでしょうか。

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人を支える「こと」2

さて、難民支援を例にしてみましょう。

難民は、戦禍や政情不安などによって自分の国から追われたたり離れたりした人たちです。平和に普通に日常を送りたいだけなのにそれが叶わず、身の危険もあって逃げてきている人たちが私たちと同じくこの地球上に住んでいます。

その人たちを周囲で支援している人たちもいます。
難民支援の活動内容自体は一方通行かもしれないけど、活動している人は難民の笑顔に救われていることもあるし、その活動を支える自分の家族もいるし友人もいるでしょう。
当たり前ですが、支援の周囲にはその活動者の日々の生活を支える人もたくさんいます。

このように全体を見つめると、仕組みもあるし出来事も生まれているのがよく見えますが、一番は「こころ」ではないでしょうか。

さて前回に引き続き、人を支える「こと」でしたね。
心の底からの安心感を与えられるかと問われて、できると確信をもって答えられる人がどれだけいるのでしょうか。

・余裕があるから助けてくれるんでしょ。
・あなたの満足感のために私は利用されているんでしょ。
という見方だって当然あります。

これらの意見を偏見といって片付けるのは強者の論理でしょうか。
とても人を信じるには不安で、猜疑心から人の行動を見つめる人はその人なりの意味や価値があるからそうしていると考えた時、偏見で片付けるのは、本当に弱者に寄り添った人を支える心情とは言えないのではないか、と思うのです。

人としての存在は対等であっても、立場は対等でないことが往々にして起こります。そこには嬉しさと同時に厳しさや虚しさも存在します。
だからといって、辞める方向にはなりません。

なぜなら、人としての対等をプライオリティ(優先)としているのですから。

こういう際によく例えられるのが壺です。
割れたツボに水を注ぎ続けても、失う量よりも多く注げば満水を保てるでしょうが、吹き出していることがわかっているのに注ぎ続けるのは注ぐ側にとっては苦痛です。安定的にそして確実にツボを満たすためには、いつかは必ず修復が必要です。

では、その割れたツボを修復できるのは他者でしょうか。外からツボを押さえたところで、その支えがなくなれば再び噴き出してしまいますから、やはり自身の力に依ります。
自浄作用ということもできます。

だからこその自立支援です。
一人の人間としての尊厳を守ることは、一人の人間として自立することではないでしょうか。

あなたにとっての「人を支える」。
この「こと」に対して、
どんなことができそうでしょうか。
どんな悩みに直面するでしょうか。
どんな工夫ができるでしょうか。
どんな喜びを味わうでしょうか。。。

支えても、支えられても、その一方の立場に浸り切らず、自立した自分自身であるための本質とはなんでしょうか。

そのひとつは、ことづくりの基本である俯瞰力です。
答えがあって、それを知っておけば問題に対処できるなんて、現実にはなかなか起こり得ない状況ですからね。そもそも、そこにあると思う正しさに問題意識を持ち続けることも大事なのですから。

これからの社会では、そこを見つめ続けることが大切な気がしています。

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畑の環境美化

昨日は暑かったですね。
「ともに菜園」も、数日前までの雨とはうって変わった暑さに、植物より人間が対応できずにいます。

湿度は充分に蓄えた畑ですから、光を浴びて一気に雑草たちが成長しています。
上の畑は秋の収穫祭用にサツマイモと落花生を植えていますが、その周りに草丈の長い雑草たちがにょきにょき生えてきています。

まずは落花生周り。
周囲を耕し、落花生の畝の中をきれいにしました。
あんまり動かないでも、首の周りに巻いたタオルは汗でぐっしょり。給水が欠かせません。

畑の中央にある道もきれいにして、午前の部は終了です。

午後は下の段周りを草刈り機で掃除したり、シソ周りやニラ周りを掃除しました。

まだまだ終わっていませんが、おやつの時間に食べるアイスクリームがとても魅力的な時間になりました。

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人を支える「こと」1

生活しているといろんな「こと」が起こります。

へそ思考で見つめると、ことの起こりは「こころ、出来事、仕組み」の3つが基本となります。
「ものを買う」「ものをつくる」も、ことづくりの視点から見れば「こと」です。買うもつくるも、意図などの必要性があってのことです。
その必要性は、心情や状況や構造などからつながっていますし、その関係性である空想や理念や機能からも見つめられます。

ことづくりの考え方では1人の人格は最大限尊重される存在です。ともにスタイルが全体主義でないというのも、この考えからです。

そうなると、当然ながら最後の最後まで自身を支えられるのは私ではなく各個人の力に依ります。
なにしろ「答えは常にあなたの中にある」のですから。

見守るために「こころ」で柔らかく包み込んだつもりでいても、時としてそれは冷たいと感じさせることもあります。具体的な言葉で励ます「出来事」など、不安感を払拭して確信感をもてる包容への願いをもった人などです。

個対個の関係性の中では、どちらかがこれ以上は難しいとか悩ましいとかと感じたり考えたりすると、その時点で応じることができなくなります。

そんな状況になった時、ことづくりは考え方を伝えることはできても、人自体を支えているわけでもなく、ただ、人の考え方を支えているだけ、です。それはものづくりも同じです。どこから何をどのように「受け取る」か。という関わり方自体はあなた自身の想いに委ねられているのです。その場合に登場する「受け入れると受け止める」の話も、後日掲載しますのでご覧ください。

依って立つ、ことの意味。
支え合うことはできるけど、一方的に支え続ける事もできません。
ともに、の意義とはお互いの想いが共通了解のレベルにないとなかなか難しいようですね。

見えていない、もしくは見ようとしていないところからでも、誰かにどこかで支えられていますし。

なんだか、どこか宗教的な意味合いの話になってきましたね。でも本質的なところが繋がっていることは確かなのです。
それはへそ思考が「世界のとらえ方」を示しているからに他なりません。

続きはまた。

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中山ひまわり団地

昨日は久しぶりにお出かけをしました。
まんのう町には広いひまわり畑がたくさんあるということで、丘の上にある中山ひまわり団地へ。
高松市では見かけられないような広々した景色に癒されました。
この夏、また行ってみたい場所を見つけられて嬉しいひとときでした。

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水耕栽培器

以前からずっと気になっていた水耕栽培器を手に入れました。
露地栽培はたくましい野菜を育てるのにはいいのですが、定期的に収穫したい野菜を栽培するのは結構大変です。
昨年は1カ月ごとに畝を作ってそこに植えていましたが、暑いとき寒いときの育成速度が違いますし、食べごろからとうが立ってしまうのも早くてどうしようかと思っていました。
ブロッコリースプラウトと同じように、ちょっとしたサラダに用いられるかを試してみようと思います。

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雨上がりの草刈り

昨日は久しぶりの晴れ間でした。

台風3号後の梅雨前線の影響で、九州地方では土砂災害で亡くなった方も出ています。
災害に遭われたり非難されている方も多いと思います。安全対策を十分にとってくださいね。

ここしばらく畑を耕すことも、草抜きすることもできない状態が続いていました。
雨が降ると危険でも田んぼを見回る人がいるのはなんでだろうと思っていましたが、実際に自分が始めると、その気持ちがよくわかります。気になって仕方ないのですが、安全な時に手を入れることを徹底することも大切なんだと実感します。

ようやくの晴れ間ですから、思い切って草刈りを始めました。
ここはうちの土地ではないんですけど、うちが手入れをしなくてはいけない場所らしいので、草が生え過ぎないように気をつけています。

ちょっと休憩中の時に撮った写真です。

ここはまだ1/3ぐらい。
ここからまだ上があります。
約2時間ほどで終了。

午前中には散髪に行ってきたので、自分も環境もこざっぱりした気持ちになりました(^○^)

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