一緒に〇〇する。
それは間違いなく「ともに」です。
一緒に何かをすれば共同ですし、協働もできます。
でも、ことづくり生活での「ともにスタイル」に込めた想いはそれだけではありません。
「ともに」の根っこは多様性です。
金子みすゞ(詩人)のように、みんな違ってみんな良い、のです。
一緒になる「場面」が異なっても、同じ本質を見つめていれば「ともに」になります。
この場合の本質とは、どこかの具体に固定されているわけではなくて、時と場合や見方考え方などで自在に変わっていきます。
誤解がないようにお願いしたいのは、「ともに」は全体主義とは限らないということ。
個人の多様性を尊重することだって可能なんです。
では、多様性とはなんでしょう。
これは先日も述べましたが、ひとつ補足しておきたいことがあります。
少し例示をしましょう。
とあるシャッター商店街。地元には高齢者が多くなったので、小さな雑貨屋さんと食料品店を開きました。
雑貨屋さんと食料品店という別の業態ですが、地元の活性化という点では「ともに」事業を行っています。
街のスーパー。品揃えもよく似ているけど微妙に違う。得意領域も違うので、利用者は日によって使い分けることができます。不沈をかけたライバル店ですからしのぎを削る毎日でしょうが、利用者目線では「ともに」成り立っています。
では、これはどうでしょうか。
商店街の再開発話が持ち上がりました。イメージを一新させて垢抜けたシンプルさでお店づくりをするようになりましたが、ある店主は昭和レトロな店構えにこだわりがあり外観の統一には参加しません。
人には、できることとできないことや、やりたいこととやりたくないことなどがあります。
それらを見つめずに統一させることは、多様性という視点から「ともに」とすることは難しいでしょう。
「同じこと」とは、見つめる方向によって異なるのですから。
多様性維持の方向を見つめる。
批判はしても、否定はしない。
これが「ともに」の原理原則です。
最終的に統一されることは問題ないのですが、最初からイエスマンが揃っても多様性は維持できません。
自分の意味づけや価値づけが異なっても、相手を受け止め、共感し、相手の良さを引き出す工夫をお互いにしたいという想いがなければ、とてもことづくりでの「ともに」とは呼べないと考えています。
これは夫婦間も同じです。
その人がもつ本当の人間性は、苦しい時に現れます。
その時に、意見が合わなくても支え合える。一部が理解し合えなくても協働できる。
そこに多様性を維持できる心構えがありそうですね。
この話はいずれまた。