さて、難民支援を例にしてみましょう。
難民は、戦禍や政情不安などによって自分の国から追われたたり離れたりした人たちです。平和に普通に日常を送りたいだけなのにそれが叶わず、身の危険もあって逃げてきている人たちが私たちと同じくこの地球上に住んでいます。
その人たちを周囲で支援している人たちもいます。
難民支援の活動内容自体は一方通行かもしれないけど、活動している人は難民の笑顔に救われていることもあるし、その活動を支える自分の家族もいるし友人もいるでしょう。
当たり前ですが、支援の周囲にはその活動者の日々の生活を支える人もたくさんいます。
このように全体を見つめると、仕組みもあるし出来事も生まれているのがよく見えますが、一番は「こころ」ではないでしょうか。
さて前回に引き続き、人を支える「こと」でしたね。
心の底からの安心感を与えられるかと問われて、できると確信をもって答えられる人がどれだけいるのでしょうか。
・余裕があるから助けてくれるんでしょ。
・あなたの満足感のために私は利用されているんでしょ。
という見方だって当然あります。
これらの意見を偏見といって片付けるのは強者の論理でしょうか。
とても人を信じるには不安で、猜疑心から人の行動を見つめる人はその人なりの意味や価値があるからそうしていると考えた時、偏見で片付けるのは、本当に弱者に寄り添った人を支える心情とは言えないのではないか、と思うのです。
人としての存在は対等であっても、立場は対等でないことが往々にして起こります。そこには嬉しさと同時に厳しさや虚しさも存在します。
だからといって、辞める方向にはなりません。
なぜなら、人としての対等をプライオリティ(優先)としているのですから。
こういう際によく例えられるのが壺です。
割れたツボに水を注ぎ続けても、失う量よりも多く注げば満水を保てるでしょうが、吹き出していることがわかっているのに注ぎ続けるのは注ぐ側にとっては苦痛です。安定的にそして確実にツボを満たすためには、いつかは必ず修復が必要です。
では、その割れたツボを修復できるのは他者でしょうか。外からツボを押さえたところで、その支えがなくなれば再び噴き出してしまいますから、やはり自身の力に依ります。
自浄作用ということもできます。
だからこその自立支援です。
一人の人間としての尊厳を守ることは、一人の人間として自立することではないでしょうか。
あなたにとっての「人を支える」。
この「こと」に対して、
どんなことができそうでしょうか。
どんな悩みに直面するでしょうか。
どんな工夫ができるでしょうか。
どんな喜びを味わうでしょうか。。。
支えても、支えられても、その一方の立場に浸り切らず、自立した自分自身であるための本質とはなんでしょうか。
そのひとつは、ことづくりの基本である俯瞰力です。
答えがあって、それを知っておけば問題に対処できるなんて、現実にはなかなか起こり得ない状況ですからね。そもそも、そこにあると思う正しさに問題意識を持ち続けることも大事なのですから。
これからの社会では、そこを見つめ続けることが大切な気がしています。