どんな「コト」も、突き詰めると
・やりたいからやってる
・やりたくないからやらない
自分の価値観に照らした行動になる。
つまり、自分と向き合わさせられます。
誰かとか神様とか遺伝子とかに
・やらされている
と考えるのも当然ながら自由です。
でもその価値観を選ぶ自分がいるのですから、選択する行為自体からは逃れられません。
結局、自分のコトに対する理由なんて,普遍性はありませんが何かしらの動機はあるんですね。ちゃんと見えていないだけ、見つけられていないだけ、なんです。
その答えは自分の中にあるのだから、他の人にはわかった気持ちになれても本当のところはわかりません。
何かわからないコトを知りたい欲求はほぼ全ての人の共通しますが、わからないコトはやっぱり多いのですし、ましてや概念的な解釈において絶対と言い切れることなんてそう簡単には見つかりません。
にも関わらず、無理にわかろうとして表面的な言葉を並べてそれっぽく理屈っぽく正当性があるかのように語っても、所詮は自分の価値観から出た以上の意味や価値はなかなかもたせられません。
誰かが言ってる、あれに書いていると言っても、それを正しいと解釈しているのは自分自身なのですから。
自分の意見が普遍的な価値をもつかのように主張するのも対立を煽るだけです。
言語だけでなく価値観や宗教観も異なる多様な社会を形成しようとしている今だからこそ、自分は、という主観的な意味や価値を含む前提を出し合い、共通の価値を探る作業が必要なのです。
その状態を「擦り合わせ」と言います。哲学の世界では共通了解と呼ばれています。
どんなコトも、結局はあなた次第。
これをお読みになっているあなたも,過去現在未来というあらがいようのない時間軸という流れの中で,いろんなコトを体験して吸収してきたでしょう。
それを活かすためには自分や周囲を「みいだし・ひきだし・たかめて・みまもる」こと。
これからも、たくさんの意味や価値がある世界に目を向けて、あなた自身の意味付けや価値観を未来志向で更新し続ける姿勢を大切にしてくださいね。