曖昧さが世界を豊かに

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「ことづくり」の視点。
この基本3領域である,「こころ・出来事・仕組み」に何が入るかは,それを考える人の主観に左右されます。

完全さや絶対性,超越的存在はここにはありません。
漠然とした曖昧さがあります。
曖昧ですから,ややもすれば精神的な不安定さや,結論にたどり着けないもどかしさも生まれます。

それを克服する方法に,「ま,いっか」があります。
「ま,いっか」は,曖昧さを受け止め,必要に応じて受け入れるために使う『魔法の呪文』です。

哲学者のメルロ=ポンティは、フッサールの現象学を学びました。

その彼が『完全な還元は不可能であると言うことである』と述べたとき,フッサールの目指す本質から距離を置いた,と言われています。(「知覚の現象学」序文)

また,このようにも書かれています。
【私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。】(ウィキペディアより)

これってどういう「こと」なんでしょうか?
なんだか難解ですよね。

両義性とは,「一つの事柄が相反する二つの意味を持っていること。対立する二つの解釈が、その事柄についてともに成り立つこと。(小学館 デジタル大辞泉)」とあるように,ひとつの「こと」に対して2つの「意味」がある性質です。
それは表であると同時に裏でもあり,善であると同時に悪でもあるというのです。

これは,あなたが解だと思っていることは本当に真理としての解なのですか?それはだれにとっての解なのでしょうか?と,問いかける大切さを伝えています。

まずは自分自身が知りうることからの出発。

曖昧さが許されない状況の時,そこにはジレンマやトリレンマと呼ばれる葛藤が生まれるそうです。
ジレンマとはAかBかのどちらかを選ばないといけないという葛藤です。
トリレンマはAかBかCのどれか一つは諦めないといけないという葛藤です。

こういう場面は,普通に生活をしていると頻繁に起きますよね。
それを当たり前のように受け入れていますが,全てをそうする必要はないはずです。

でも、考えてみてください。
何かを得るために何かを諦めなくてはならない,と誰が決めたのでしょう。

それは他ならないあなた自身がそう思い込んでいるからです。

何かを選択したら何かを手放さないといけない。
それ自身が自明なことではありません。

とすると,諦めずにすむ方法も探すことだってできそうです。

結果として全てを諦めることにつながるかも知れません。
でも,全てがうまくつながって,なんだか良い感じ,になるかも知れません。
そのとき,実は全く別の視点で,別の価値観で「こと」にあたっているかも知れません。

まずは答えを探すよりもやってみる。
その過程を楽しむ(曖昧さを愉しむ)。
その方が,ずっと楽しい生活が送れるのではないでしょうか。

フッサールは,その過程を楽しむという意識作用をノエシスと呼び,意識の対象となる存在をノエマと呼びましたが,その話はいずれまた。

そう考えると,やはり自覚的な思考というのはとても大切ですし,その際に決めつけてしまわない曖昧さも大切になってくるのでしょうね。

(HP記事を再編掲載)

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