場は解釈でつくられる

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様々な事象には「人・モノ・場」というとらえ方もあります。

人とは、モノとは、という問いもありますが、ここでは「場とは」という問いについて考えてみましょう。
この場合、コトは媒介(つなぎ役)と考えると良いでしょう。

場のとらえ方には、大きく分けて物理的広さのある状態(仕組み)と心理的広さのある状態(こころ)があるようです。
後者のコト的な場には解釈が必須ですから、非常に広い意味が加わります。ことづくり的にはこちらが重要です。

一言で「場」と言っても、その解釈から導く意味や価値は本当に様々です。その共通項を探ると「事態間の関係性」が浮き上がってきます。

今回はこれを話題にしましょう。

◯モノ的な場
さて、高さ、幅、奥行きで表される場はユークリッド空間と呼ぶそうですが、これが最も一般的な「場」のとらえ方でしょう。
部屋や公園や競技場や、密林や富士山頂や深海などのように、屋内か野外か、広いか狭いか、人口環境か自然環境かなどの違いはありますが、五感で認識できる空間があります。
これはモノ的な場ですね。

◯コト的な場
自然の中でも弱肉強食という食物連鎖がありますが、これは事態の認識から生まれる「場」です。へそ思考的に述べると、サバンナや海底などで起こる、「出来事」が繰り広げられる「仕組み」を見つめる「こころ」が命名したかたちが存在する場です。

別の言い方をすると、つながりの状況(真夏に某野球場のかち割り売りがいる景色など)が意味づけされた場です。同じ空間には、蚊が観客の血を吸おうと肌を狙っていたり、スマホに電波が届いたりしています。

こうなると同じ空間に違った意味をもつ場が存在しうることが見えてきます。

◯場のかたち
精神病理学者の木村敏も同様のことを書いていますが、モノは同一空間にひとつしか存在できませんが、コトは複数存在できます。
つまりひとつのモノ的な場にも、複数のコト的な場が存在すると言えそうです。

例えば、物理的空間をもたない仮想空間で情報交換や議論し合うSNSなどのコミュニティは、広さを五感で認識できるモノ的な場はありませんが、意識(こころ)で認識できるコト的な場が存在しています。

物質的には、今の私がこうして肉体を置く空間はどことも交錯していません。私だけが占有しています。その上でコト的な場を認識できる「こころ」は、スポーツ観戦で友人と一体感を味わったり会議で反対意見で白熱したり、お腹をこわしてトイレを探したりなどをします。

このように、コト的な「場」とは主体となる者を中心に周囲に広がっていて、認識次第で変幻自在なようですね。

前述の電脳空間でお互いの意思が交流する状態をつくる場合は、本来は非言語情報の感情や態度も間の取り方も、言語(文字)情報を核にして行われます。

これらは「こころ」同士のつながりが生み出す場と言えそうです。

◯あいだの関係性
それでは、こころが通じ合う場のかたちとはどんな状態でしょうか。

例えば、相手が物であれば解釈するのは自分だけですが、他者が関わるとお互いの解釈が交わります。そしてその「場」には、友好的であったり攻撃的であったりの感情の場も生まれます。

通じ合うには、まずはお互いに認め合う関係性が必要でしょう。
そして受け止め合い認め合うことができた状態なら、たとえ共通項が見つかっていなくても、そこには相手を尊重する意思があるのではないでしょうか。

他にも、自身が自問自答する状態や無意識状態のような自分の「こころ」の中にも「場」はあります。

こころを認識するひとつの方法は、言葉にならない感覚的なことを意識下に置いて言葉で置換します。自分自身が意味や価値を見つめられる言語操作が、ことづくりの場に関わる方法ですが、思考停止をしていても場に身を置くことはできます。また、言葉にはならなくてもストンと心に落ちることだってあります。

そこにはモノ(物資)やコト(事態)などの、「なにか」と「なにか」といった2項以上の構成(関係性)がつくりだす「あいだ」というかたちがあります。

つまり、ことづくり生活における場とは、「関係性の状態を認識する際に解釈された意味や価値などによってつくられるかたち」と考えます。

それらの場で起きる「こと」については、またの機会にしましょう。

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